2014年8月7日木曜日

アンダルシアから山元町へ

スペイン、ベラルカサルにある、フラグア・アーティストレジデンシーに行って、ちょうど3年になる。

ベラルカサルの城

マドリードの友達のアパートに4−5日世話になり、町の中心アトーチャ駅から鈍行列車に乗って6時間。アンダルシアに南下し、もう名前も忘れてしまった小さな駅で、レジデンシーのディレクターをしているハビエルが出迎えてくれた。砂埃でよく見えない道を、時々エンストしそうになる車を運転しながら、「心の準備はいいか?」と彼は僕に聞く。

エンストしたら車が押せるかとか、そんなことかと思ったら、
「今、ひと月前にレジデンシーをはじめていて、君と一緒に生活をしてもらうアーティストがいるんだけど、彼女はとても美しいんだ。でも、みんなが彼女に舞い上がってるから、恋に落ちないほうがいいかもね。」と。
そんな話をのっけからしてくるところが、いかにもスペインの男らしい。(のちに、その舞い上がっているうちの一人が、僕と共同生活をする3人目の、ゲイでバルセロナ出身の女性アーティストであることを知ることになるのだが、その話はまた別に・・・)

そんな、まえふりつきで知り合ったのが、リリヤだった。ロシア系ユダヤ人で、キリギス出身。インスタレーションや、映像、時にはパフォーマンスも含めた作品を作っている。アートを言葉で説明することは得意ではないので、意味が何層にも丁寧に敷き詰められたリリヤの作品は、僕の手には負えない。しかし、そもそも出自からして複雑な彼女自身のアイデンティティを突き詰めていく過程で、国家や、政治システムが呆気なく解体し、そこに残る文化の記憶(これは彼女自身の言葉だ)、そんなテーマで彼女は創作している。

先月、山元町坂元にある茶室の修復と将来の活用方法について、話をもちかけたときに、リリヤはすぐに茶室を使ったアートのアイディアをいろいろ出してくれた。キリギスでは、シルクロード沿いにチャイハナと呼ばれるティーハウスが昔からあり、中央アジアをキャラバンが行き来していた時代、商人たちはそこで荷を下ろし、商いをしながら、地元の人に遠い地で見た珍しい動物や、違う民族の不思議な風習の話をした。また人々は、寝転んだり頬杖をついたりして、パイプをくゆらせながら、詩人の語る叙事詩や音楽に耳を傾けたり、宗教や政治について、意見をたたかわせたりもした。いってみれば、チャイハナは、コンサートホールであり、公民館であり、市場でもあった。

もちろん、日本の茶室はそれとはだいぶ違うけれど、身分を越えて、茶を飲み、掛け軸や花を愛でながら語らいを持つ、という多機能な文化施設だったことに変わりはない。

そんな交通の「場」として、茶室をテーマにアーティストを内外から招いて作品を作ってもらったり、地元の人がくつろげる施設を併設できないか。そんな話をリリヤとしながら、文化の異種交配について考えた。

彼女とアンダルシアで知り合ったのは、偶然ではなかった。エドワード・サイードも言っていたように、700年もの間、アンダルシアは、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教を信じる人々たちが共存した、夢のような地だったのだ。(もちろん、いつもうまくいっていた訳ではなかったけれど)そこから、最先端の天文学や、医学や、音楽や、美術や、建築が生まれていった。異種交配を恐れなければ、コスモポリタンな文化が醸成される。

サイードが思いをはせたアンダルシア文化に、僕は10代の頃から魅せられてきた。寛容なアンダルシア文化と地中海文化の延長線上で、イスラエルとパレスチナの問題を捉えられたら、どんなに良いだろう。でも、そんな異種交配を恐れない試みが、山元町で起こっても良いはず。

そういえば、山元町にも、たたら遺跡が多くあるけれど、あのレジデンシーの名前もフラグア(鍛冶場)という名前がついていたんだっけ。

偶然と必然は隣り合わせだ。
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2014年8月2日土曜日

南方熊楠の住まいをたずねて

熊野古道の帰りに、田辺駅に近い南方熊楠顕彰館へ足を運んだ。

小学生の時に、南方熊楠の存在を知ったのも、今思うと自分が外国へ早く旅立った理由のひとつだったのかもしれない。

粘菌という、原始的な生物の営みを研究しつつ、民俗学から環境保護、神社合祀反対運動といった社会的な活動までした熊楠。20歳でアメリカへ渡り、6年後にはイギリスへ。33歳で帰国してからは、紀州を生活の拠点とし、紀伊の森の複雑な生態そのもののような知の体系を編み上げた。



彼が熊野の森で仁王立ちしている姿は、初めて見たときから、いつも僕の頭のどこかにある。


田辺にある顕彰館は、37歳で熊楠がこの地で生活する決心をつけ、後半生をすごした家がそのまま残されたもので、研究所・博物館然としたモダンな建物も併置されている。彼が住んでいたときそのままに残された家の縁側で、橋本邦子さんが温かく迎えてくださった。彼女は熊楠夫人の親戚にもあたり、熊楠の著作にも造詣が深く、文章もあちこちに寄稿されている。

僕はつねづね、彼の著作や研究が欧米であまりに知られていないことに疑問を持っている。日本人でネイチャーに51本も論文を出しているから、熊楠自身が英語で書いた文章も数多い、のにも関わらず、である。(なんといっても、18カ国語を操ったのだ。キューバの多国籍サーカス団と一緒に放浪しながら、女性団員たちに送られてくる、いろいろな言語で書かれたラブレターを熊楠がせっせと訳し、返事まで書いてあげたというエピソードはほほえましい。)

橋本さんも、熊楠の認知度の低さに歯がゆいものを感じられているようであった。熊楠の研究分野が多岐に広がっているために、翻訳するにしても、どういう切り口で紹介すれば分からず、多くの研究者が手をこまねいている現状を教えてくださった。

時間に追われる現代では、編集を経てパッケージされ、コモディティにしやすい知が求められる。アメリカやイギリスの出版社も、ある程度の売り上げを見込める物しか手を出さない。かといって、アカデミックなジャーナルを通じて研究発表をするといっても、熊楠の研究を取り上げるジャーナルはどこにあるのか。生物学か、民俗学か、文化人類学か、哲学か? 放埒な熊楠の知のあり方は、「いますぐに役立つ」ことばかり追求する末期資本主義社会には、徹底してそぐわない。

インターネットは、一見すると博物学に適したメディアに見える。しかし、得られる情報のほとんどは薄っぺらい。こんな時代だからこそ、横断する知のあり方として熊楠を読み直さなければ、と思って顕彰館をあとにした。

もう一度、中沢新一の書いた「森のバロック」と、彼のまとめた南方熊楠コレクションを手に取ってみよう。





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2014年7月28日月曜日

熊野へ

カナダから友人の息子、ルカが来ていて、少し旅をした。

関西を回り、以前から惹かれていた熊野へ行った。その印象は、期待をこえて圧倒的であった。

きのくに線を使って田辺駅で降り、バスに乗って湯峰温泉に着くまで、大阪、天王寺から約6時間。隣の県なのに、とにかく遠い。

山あいを縫うようにして移動すると、山が何層にも折り重なってそびえているのがわかる。ドイツのブラック・フォーレストともまた異質の、深くて暗い緑の森。



 湯峰温泉から熊野本宮大社まで歩くと、すでに黄昏時。宿に荷物を置いて、山の陰から射す陽光とあつい雲に包まれて、目に入るすべてが蒼く見える。田辺をバスで出てから、我々を誘惑し続けた川の美しさに触れたくて、水辺に降りる。小さい頃の自分によくやってきた既視感につながる、不思議な河原。砂とも泥ともつかない、川底のような地面がだだっ広く続いていて、水の流れが錯綜している。あとになってわかったのだが、その河原は熊野川、音無川、岩田川が合流して形成された中州であり、明治まで熊野本宮の社殿があった場所。そんなことも知らず、しばしルカと石投げに興じる。水切りをすべく平らな石を探していくと、すべすべで平たい、黒い焼き物の破片のような石がいくつか見つかる。それもそのはず、120年の間、洪水で流れ出した社殿のかけらは水に洗われ、石になっていても不思議ではない。日が陰ってくればくるほど、黒い山が近くなり、靄が稜線をぼかし、空と山の境がどんどん見えなくなっていく。




水切りをしていたすぐ脇に神が降りてきたと言われる場所、大齊原(おおゆのはら)があることを知って、次の朝、早起きして参拝する。鳥居をくぐってしばらく行くと、低い石垣が濃い苔に覆われているのが見える。




その石垣から突きだした階段を数段上っていくと、広いフィールドに石碑がちらほらと見えてくる。中心には小さな石祠が2つ祀られており、その中に本宮の社殿の遺構が納められているらしい。

見とれていると、何かを話しながら誰かが近づいてくる。振り向くと、痩せたおばあさんが杖をつきながらやってくる。「おはようございます。」と会釈をすると、向こうは深々と頭を下げて「おはようございます。」と、僕を手招きをする。

「あたしゃ、今年で99歳。こうして毎年拝ませていただいて、おかげさまでこうしていられるのよ。」と、彼女。「ここはあたしの庭みたいなものだから、お掃除させてもらっているのよ。」

笑顔で、ふたこと、みこと、彼女と言葉を交わしてから、僕はおおゆのはらを降りて、昨日の河原の方へ歩く。河原に近づくと、また石垣があり、今度はもう少し高い土手になっていて、その上へ寝転んでみる。背中にあたる草が柔らかい。


1000年以上も間、熊野はあの老婆のような人々に愛され、詣でられてきた。

眼前の山々と川からなる光景は、厳しく、恐ろしいほどの気配に満ちているのに、それでいて何か懐かしくて、心が休まるのは、熊野に思い入れた人々の愛情が、澱のように堆積しているからのように思えてくる。

後鳥羽上皇が28回も訪れたという熊野。

僕はこれから何度行けるのだろう?

何度でも戻りたい。






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2014年7月5日土曜日

水村美苗と鉄斎 ー 選ばれた文字と言語

水村美苗の「私小説-from left to right-」を読んでいます。

"I'm reading this super-interesting Japanese writer...do you know Minae Mizumura?" と言われる前まで、僕はミズムラミナエという作家のことを知りませんでした。


アルゼンチン人で大航海時代のスペイン副国王の血を引くイネスは、むろんスペイン語でミズムラの"Una novela real"を読んでいて、彼女の唇からスペイン語訛りの英語で語られる和製嵐が丘の物語は、この上なく魅力的に聞こえたのに、僕が"Una novela real"を「本格小説」として読むのは、それから6年も経った今年のこと。しかし1度読み始めると、これが止まらない。寝る間も惜しくて、2週間ほど睡眠不足で読破したのですが、その前作に当たる「私小説」も同じくらい面白い。今度は読み終えるのが惜しくて、1日20〜30ページ限定で読んでいます。


水村美苗は、日本で生まれた日本語で書く作家という点で、他の日本語を母語とする多くの作家とは変わらないのですが、彼女は中学校からアメリカに渡り、イェールの大学院の博士課程を経て、アメリカの幾つかの大学で教鞭を取ってから、日本に戻って作家になったという異色派。彼女は、たぶん英語で小説を書くこともできたかもしれないし、仏文で博士課程まで取ったフランス語で作家活動に入ることだってできたのかもしれない。しかし、彼女はあえて日本語で書くことを選択した。その日本語という言語に対する思い入れが、彼女の言葉を強靭にしている。それは、ユダヤ系アメリカ人であるリービ英雄の書く、「越境した」日本語の透徹さにも通ずるものを感じます。表現の方法として、他の言語で言えたかもしれない可能性を振り切って、日本語で書いた必然性が、文体にあらわれてきている。

そんな事を考えながら、昨日、出光美術館でやっている富岡鉄斎展を見ていて、似たような意志を感じました。彼は国学者として、漢詩を自分のものとしていたといわれています。自分の書画については、描かれた絵を見ずに、まず詩を読め、と言っていたぐらい。僕は日本の高校に行っていないおかげで(というのは逃げ口上ですが)、彼の書いた漢詩を理解できず、ひたすら彼の絵と書がつくる空間にひたすら見入って圧倒されていました。彼の作品ほど、漢字の視覚デザインとしての凄味を感じたことはありません。展覧会では、彼が若い時分に書いたひらがなの和歌も何点かあり、非常に流麗で美しいのですが、彼の漢字と絵が一体になった時の壮大な力はない。

水村美苗やリービ英雄が、書き言葉としての日本語を選択したように、鉄斎も、漢字と漢詩を選び取ったに違いありません。しかもそれは、想像するに、中国人がごく当たり前に漢詩を書にしていくのとは、必然的に違って来るはずです。


ピカソが描いた線の強さにも通ずる(鉄斎もピカソも、牛好きです)、鉄斎の線が持つ躍動するエネルギーは、彼の画から漢字を立ち昇らせ、甲骨文字の古代に連なる漢字の呪術的な力を想い起こさせてくれたのでした。

鉄斎、おそるべし。




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2014年6月29日日曜日

模倣と音楽

誰かに音楽の話もブログで取り上げてほしい、と仰せつかったので、音楽について考えていることを書いてみます。

前回のブログで、ワーグナーのオペラ「ニーベルングの指環」のアンヴィル(鉄立)の合奏について触れましたが、4作から成る「指環」の2作目、「ラインの黄金」の2場に出てきます。(2:40以降)



それから、ヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」にも。


これらは、もちろん演劇と音楽が融合された「歌劇」ですから、音楽も舞台上のアクションを忠実に反映し、音に具体的な「意味」が担わされています。普通の「絶対音楽」と呼ばれる、クラシックのインストゥルメンタル曲では、通常「ドミソ」というピッチの集合は、ドミソという和音以外のなにものでもなく、それが指環や、飛行機や、片想いや、媚薬であったりすることはありません。

しかし音楽も、その昔は他の芸術と同じように現実世界の「模倣」が基本になっていると考えられていました。

プラトンはこう言っています。

「音楽の時間と旋律は性格(エートス)を、我々に想起させる(具体的な)イメージを与える。」

彼はつまり、私たちが、ある音楽を聞いて悲しいと感じるのは、その音楽が私たちの心に「悲しい」という具体的なイメージをもたらすからであり、絵画に描かれた「家」を見て、私たちが実際の「家」を想像できるのと同じだ、と言っているわけです。

これが、アリストテレスの掲げる「模倣」(Mimesis)があらゆる芸術の根底にある、という思想です。

僕は基本的に、音楽は抽象的なものだと思っています。440hzという空気の振動は、それ以上でもそれ以下でもないと考えます。しかし、自分で音楽を作るときには、音以外のものから得たイメージが、役に立つことはあります。

20世紀になって、音楽の抽象性だけが強調されるようになり、その反動としてMimeticな音楽の新しい可能性も出てきました。それは、楽器から出る音や、他のいろいろな音を科学的に分析することによって、音の生成の仕方、音色、音響、そういったこれまでよく解明されなかったことが分かるようになり、科学的に音を分析し、その結果を作曲または演奏の材料とすることを可能にしたからです。

例えば、黛敏郎の「涅槃交響曲」。これは梵鐘の音を科学的に解析した音を、オーケストラのハーモニーに「翻訳」して、曲の構成に使ったもの。



それから、ペーター・アブリンガー の古今東西の人物(毛沢東からマザー・テレサ、アポリネールからパゾリーニまで!)のスピーチパターンを分析し、その癖をピアノの伴奏に「翻訳」したこれ。


あるいは海岸に打ち寄せる波を解析して、音色とハーモニーの構成論理を作り、壮大な管弦楽曲とした、畏師トリスタン・ミュライユのこれ。



厳密に言えば、こうして使っている言葉も、「現実」を象徴しているだけであって、「海」という言葉はあの膨大な量の水が寄せては返し、水平線を越えて広がっている、それ、そのものではありません。この絵のように。



こうして作られた音楽も、象徴されたもの、あるいはその具体的な発想の種子から大きく変容させられて何か別なものになっていることが面白く、音楽は空気を震わす波形としか存在しえないことに、僕は逆に豊かさを感じます。



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2014年6月25日水曜日

蝦夷(えみし)に住んでいた、たたら師たちの音楽

今日は、NPO亘理山元まちおこし振興会の理事をされている千石信夫さんと、郷土史の研究をされている菊地文武さんにお話をうかがってきました。

千石さんは地元山元町のNPOを通じ、古民家の保存や新しい農産物を使ったまちおこしなど、幅広く精力的に活動されています。(活動が掲載された河北新報の記事はこちら

菊地さんは、山元町一帯から出土している遺跡に多く見られる奈良・平安時代の製鉄炉の跡に注目し、東北の鉄が「やまと」の古代史に与えた影響について研究されています。ご自宅も被災されたのですが、その負のエネルギーをすぐに転換させ、「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」という本を書いています。(氏の著作を紹介した同じく河北新報のリンク

震災後のインフラ整備だけにとどまらない、長期的なまちづくりを考えているお二人と、刺戟にみちた時間を過ごし、そのまま菊地さんの車で現在発掘中の新中永窪(しんながくぼ)遺跡へ。

奈良後期から平安時代に使われた製鉄炉跡を中心に、住居、須恵器や炭を焼いた窯などが実にきれいに残っていました。





東北の歴史を知るうえで、この南相馬地区から亘理に連なる製鉄炉の跡は、ロゼッタストーン。

高橋崇氏の「蝦夷(えみし)」では、鉄の生産とヤマト朝廷の蝦夷制圧の因果関係が書かれています。しかし、実はすでに弥生時代から東北で製鉄が行われていた可能性が、最近の研究で示唆されています。

日本がひとつではなく、いくつもの日本であった時代、すでに鉄を作っていた弥生の蝦夷の末裔や、高度な技術を持って朝鮮半島から渡ってきた移民たちの手で、さらに洗練が進んだこの地方の製鉄に、朝廷が目を付けたのかもしれない。

近世以降、農村地帯として中央が手なずけようとしてきた東北の田舎とは、全く別の顔がそこから見えてきます。

たたら鍛冶の跡を見ながら、ピタゴラスが鍛冶屋の叩くハンマーの音を聞いて、西洋の音律を編み出したことを思い出しました。ワーグナーのオペラ、ニーベルングの指環で、アンヴィル(鉄立=かなとこ)を使ったコーラスが出てくるのは、指環をつくるという筋書きの問題だけではなく、ワーグナーは音楽と、シャーマンとしての鍛冶師の神話的つながりに気がついていたからです。

東北の古代のたたら師たちは、果たしてどんな音を奏でていたのでしょうか?


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2014年6月24日火曜日

ワールドカップとイラクを抱えた世界

世界がワールドカップで沸いている間に、イラクが泥沼化している。

2週間ほど前に、イラク第2の都市であるモスルが武装勢力ISISに渡り、今日はヨルダン国境も制圧。ISISはスンニ派の勢力。アルカイダよりも過激だという話もある。

イラクのマリキ首相はシーア派。シリアのアサド大統領もシーア派。あれ?

アメリカがイラクでシーア派の長を立てておきながら、シリアでシーア派の長を倒そうとしているのは明らかに矛盾している。しかも、イラクで勢いの止まらないISISには、アメリカがシリアの反政府勢力に渡した武器が流れているらしい。

イラン・イラク戦争の時にフセインを支援したアメリカが、90年代に入ってフセインを敵に回したことを思い出す。アフガニスタンに侵攻してきたソビエトを敵に回して、ビン・ラディンに資金と武器を与えた過去も忘れてはいけない。

中東情勢を見ていると、敵・味方の一線はくるくる変わる。敵か味方か、という単純な図式は使い物にならない。サッカーの勝ち負けとは、ちょっと違う。

9.11のが起こってから1−2週間の間、ニューヨークの人々はとても優しくなった。僕はニューヨークに来て3年目だったが、あの2001年はニューヨークが村社会の集まりであることを実感させてくれた。あれだけ違う人種が住んでいれば、互いに複雑な偏見の交錯もあるし、住民の貧富の差があれほど激しければ、シビアな利害関係が常に生まれる。しかし、9.11の直後のニューヨークでは、貧富や人種・文化の違いは取りあえず置いておいて周りとうまくやっていこうという、現実的で俗っぽくって、あたたかい人間関係が生まれていた。(今も、すこしだけあの頃の人の輪がニューヨークには残っている気がする。)

それに対して、テロリストを見つけて"Smok'em Out!"と言った、ときの大統領や、その政権の国防長官に"Show the flag."と言われて派兵した我が国の首相は、ぐちゃぐちゃな中東情勢をとりあえず敵・味方に分けて、その場を収拾しようとした。

しかし、平和な日常世界での人間関係でさえ複雑でしたたかなのに、ここ35年の中東情勢となればもっと複雑で難しい。

敵と味方という図式は、人間の営みに根本的に反する気がする。戦時下では敵か味方の区別が速いほど、生き残れる確率も高いのだろうが、そういった状況を回避するのが人間の知恵ではないのか?

ともあれ、日本の今の政権でこのままいくと、また中東に自衛隊が派遣される日は近い気がする。

イラクはワールドカップ以上に目が離せない。

いやなかんじだ。






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2014年6月20日金曜日

野次をとばす心理

東京都議会で塩村あやか議員に向けられた野次に、多くの人が怒っています。

野次をとばすという心理は、
どこかで日本人の安穏としたスノビズムや
平和ぼけともつながっている。

四方を海に囲まれた安全圏。
そこの群衆に紛れて、匿名無責任な言葉を投げて、
安全な群衆=マジョリティの中に逃げる狡猾さ。

野次を飛ばした人たちは、きっと日本の単一民族神話を疑わず、
自分たちが攻撃されるなんて、考えたこともないのでしょう。
そのうえ、きっと無根拠に自分は優れていると思っている。

優れているから、他者は遠慮して攻撃を仕掛けてこないと思っている。
根拠のない優越性は、ときどき確認される必要があるので、
マイノリティである他者にちょっかいを出す。

ちょっかいや攻撃の対象となる他者は、外国人でも、女性でも、
とにかく自分より弱い立場で、抑えつけられる対象であれば誰でも良い。
ましてや、女性個人の身体の問題に立ち入るのは、言葉によるレイプ。

自己肯定のために他者を攻撃し、従属させようとするファシズム。

子どものいじめより酷い。

議会レベルでこんなことが行われている国、日本。

ただ、残念です。

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2014年6月18日水曜日

3日間、邦楽について考えたこと。

「平安の遊び心を現代に」というテーマで、土曜日はコロンビア大学中世日本研究所主催のコンサート、続いて日曜日は日本音楽サミット、それから昨日月曜日には一柳慧氏の邦楽器と西洋楽器のための曲を集めた個展、という盛りだくさんの3日間を終えました。

サミットのお題は、伝統邦楽の愛好家や演奏家が年々減り続けるなかで、日本人も外国人も、分け隔てなく邦楽器を学べる環境をつくるためのイニシアティブ。

それぞれの立場を越えて、教育者、財団や劇場といった組織の長、ジャーナリスト、プロデューサー、演奏家などによる話し合いが持たれました。僕は単なるオブザーバーでしたが、これらの人々が一同に介したことが、これまでほとんどなかったところから始めるわけですから、これから先は長いのですが、コロンビア大学が良い意味での外圧になれれば、膠着した状況を抜け出す糸口が見つかるかもしれない。

4つに分けられた戦略チームの報告を聞いていると、参加者の立場や見解の相違以上に、邦楽の置かれた危機的な状況が見えてきました。若い世代の興味をひくことができず、後継者が育たない。楽器をたしなむ人口が減ると、楽器商が成り立たなくなる。楽器が手に入りにくいので、さらに楽器を始める人が少なくなるという悪循環。

邦楽の話をすると、「日本文化は素晴らしい−>日本文化は守られるべきだ−>西洋崇拝から脱却しよう」という文脈になりがちです。しかし、日本文化 vs 西洋文化という二項対立からできるだけ離れた方が、建設的な話し合いができるはずです。

文化は競争するものでもなく(競争したって、J-Popも歌謡曲もなくならないし、取りあえず今は西洋音楽に勝ちっこない)、語学教育や算数ならともかく、芸術の教育を、「成功」というはっきりとした経済的な物差しでは考えられない。

日本における西洋音楽は、一面では西洋人の「立派な」身体に追いつくために、唱歌を使って身体改造をも目論んだ官製文化が発端でした。唱歌を書いた山田耕筰が、のちに戦意を高揚させる軍歌を多く書くことになったのは、偶然ではないように思えます。

芸術はわたしたちの無意識に働きかけるだけに、政治利用はたやすい。
例えばオリンピックのポスターのデザインや、フォントの選択に至るまで、それらが私たちを意図的にどこかに導いている可能性を考えると、夜も眠れなくなってしまいます。

僕はただ単に、長唄なり地唄や、他の絶滅危惧種である邦楽の様々が、世界の大きな生態系からなくなるのはあまりに寂しいから、単純に守っていきたいと思うわけです。天然記念物の動物がいなくなるのとあまり変わりがない。もちろん、人間−>動物のような上から目線でもなく、帝国主義者が植民地の文化に向ける、擁護者としての目線でもなく、純粋に一緒に守っていきたい、と思います。

フタコブラクダがモンゴル人のアイデンティティにとって重要であるか、とか、イリオモテヤマネコの琉球文化における認識とか、あまり考えてもしょうがない。

演奏家をフタコブラクダだとすれば、フタコブラクダはモンゴル人のアイデンティティなんか、どうでもよいはず。

僕にはフタコブラクダの形も顔もかなり面白いので、いなくなったらとても残念、それしか考えられません。

ともかく、ディスカッションは始まったばかりなのでした。
5 Blog: 2014 「平安の遊び心を現代に」というテーマで、土曜日はコロンビア大学中世日本研究所主催のコンサート、続いて日曜日は日本音楽サミット、それから昨日月曜日には一柳慧氏の邦楽器と西洋楽器のための曲を集めた個展、という盛りだくさんの3日間を終えました。 サミットのお題は、伝統邦楽の愛好家や...

2014年6月12日木曜日

日本のテレビのニュースに思うこと

日本に戻ってきて、両親と生活していると、彼らと一緒ににテレビを見ることになります。

アメリカのケーブルテレビの料金体系と、その内容に不釣り合いを感じるために、自分のアメリカでの家では、テレビを見ることがほとんどありません。

ネットから配信されるアル・ジャジーラとか、ハフィントン・ポストなどをテレビに映して見ることはあっても、アメリカの三大ネットワークニュースに触れることはあまりなく、アメリカのテレビの状況をきちんと把握しているとはいえないのですが、日本のテレビでいつも気になることがあります。

それは日本のテレビのニュースが、どのチャンネルを取っても、報道の視点があまり変わらないこと。

アメリカだと、フォックスニュースはかなり右より、MSNBCはかなり左より、という風に局ごとの視点がはっきりしていて、良くも悪くも、制作者の意図を感じることができます。常に自分と似ている視点と、かなり違う視点が世の中に存在していることがわかるようになっている。逆を返すと、どんなメディアも公正ではあり得ない、という認識を植え付けられることになります。

日本のニュースは、NHKに見られるように「客観的で正しい報道」幻想をお手本にしている感がぬぐえず、見ていてちょっと気持ちがわるい。

記者クラブの会見をみんなで聞いてぶら下がり取材をしながらニュースを作っていたら、どの局でも同じようなニュースができあがるのは無理もないのですが、実に不思議な報道のシステムです。

メディア・リテラシーは、もっと日本で問題にされるべきではないでしょうか?
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2014年6月8日日曜日

縄文、ジャスパー・ジョーンズ、雅楽

6月14日の土曜日、東京の紀尾井ホールで8年ほど前に書いた「かさね格子」という雅楽三管(笙、篳篥、龍笛)のための作品を中村仁美、笹本武志、宮田まゆみの三氏に再演して頂くことになっています。

再演がなかなかされない現代音楽の世界において、6度か7度目の再演をしていただくのは、たいへんにありがたいことです。

そのコンサートの司会も私が担当することになっていて、きょうはそのコンサートで取り上げられる細川俊夫、伊佐治直、笹本武志、エリザベス・ブラウン、高岡明、小濱明人各氏が書かれた曲の音源を聞きながら、プログラムノートの予習をしています。

また私自身が8年前に書いたプログラムノートや日記も、いっしょに読み直してみました。(いま読むとかなり恥ずかしいです・・・)

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2006年12月9

今朝のメインは初積雪となり、車検を8月に切らしていた僕は、近くのガレージに車を出しに行った。
  
車を整備してもらう間、吹雪に飛ばされそうになりながら、ガレージ近くのコーヒーショップにラップトップを抱えて歩く。仕事を終わらせるつもりで行ったのだが、コンピュータのバッテリーは充電切れ。ところが、店のどこを探してもコンセントが見つからない。仕方なくカフェ・オ・レにショコラティン、という自分としては異常にフレンチな朝食を食べながら、今週のニューヨーカー  をカバンから取り出す。ページを開いたところに、カルヴィン・トンキンズによる、ジャスパー・ジョーンズとの長いインタビュー記事が出ている。ジョーンズと30年来の知己というトンキンズが、インタビュー嫌いで知られるジョーンズをついに説得し、彼のコネチカットのアトリエ兼自宅から、サン・マルタンのセカンド・ハウスまで行って話を聞いてきた力作。リズムの良い文体に誘い込まれる。
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ホイットニーやMOMAでジョーンズの絵を何度か見ている以外に、僕はジョーンズの事をほとんど知らない。インタビューによると、彼のリビングルームには縄文土器が5点もあり、USUYUKI(薄雪)というシリーズの作品を、ここ30年近く描いているというから、かなりの日本好きであることが窺える。しかも、彼が21歳のときに、仙台へ兵役で送られたことがそのきっかけになっているらしい。兵役といっても既に彼が20歳のとき、故郷サウス・カロライナで、兵隊向けに絵の展覧会を企画運営する仕事をしていた前歴を買われての事だったから、仙台での仕事も、映画のスケジュールの印刷や、性病の危険さを知らしめるポスターのデザイン!などと、朝鮮半島の戦火からは遠く離れたものだったようだ。

僕は、2週間ほど前に特に用があるでもなく、コネチカットに1泊した。きれいだけれど、何もないところだった。仙台、コネチカット、雪、という、僕とジョーンズの淡い偶然の交錯を考える。ジョーンズも親しかったジョン・ケージの言葉を思い出す。辞書にmusicとmushroomが隣り合わせに載っているという、偶然の奇跡。

次の曲は、雪がらみでいこう。

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今年は地元宮城県の郷土史にも魅せられて、江戸時代の茶室や身近にある縄文の遺跡についてブログに書いたりしていますが、8年前の自分にとってこの雅楽器のための曲を書くということは、自分の足下を見直す作業から始まっていました。

音楽はどんなに伝統的なものであっても、お客さんの前でライブ演奏されることによって、現代のものになります。

長い時間の中でみると、ちょっとした偶然の積み重ねが、「伝統」や「歴史」を私たちに感じさせる結果になったのだとしても、つねに始原に遡って現在を考えることができる、柔軟な心を持ちたいと思います。

じつにむずかしいですが。

5 Blog: 2014 6月14日の土曜日、東京の 紀尾井ホール で8年ほど前に書いた「かさね格子」という雅楽三管(笙、篳篥、龍笛)のための作品を中村仁美、笹本武志、宮田まゆみの三氏に再演して頂くことになっています。 再演がなかなかされない現代音楽の世界において、6度か7度目の再演をしていただくのは...

2014年6月6日金曜日

茶室という空間

おととい、僕の実家、宮城県亘理郡山元町坂元の茶室を保全したい、とブログに書きましたが、僕はお茶が点てられない、ただの素人です。

しかし茶道という立ち居ふるまい、を「道」としてしまった文化には瞠目します。

20世紀になって、日常生活とアートの境目をとっぱらってしまおう、というアイディアのもと、パフォーマンスアートというジャンルが生まれてきましたが、利休という人は、そんなことをすでに16世紀に考えてしまった。

しかも、ルソン島で汚物入れとして使われていたあやしげな陶器を、茶器として使ってしまう。利休が元々の用途を知っていたかどうかは別としても、20世紀の初めにマルセル・デュシャンが道で拾ってきた便器を美しく感じて、自分の名前をそれにサインして、「アート」と呼んでしまった発想にも近い。


ルソン壺
マルセル・デュシャンによる「泉」

人の集まる場をつくり、人と人とをつなげていくという作業は、アートの根幹でもあるコミュニケーション。茶の湯は建築、花、掛け軸などの、場を構成するオブジェを含めて、マルチメディアアートでもあり、パフォーマンスアートでもあります。茶を飲むだけでなく、新しい目でモノを見る空間と時間を作る、たいへんな編集能力がそこには備わっています。

例えば最近、リクリット・ティラバーニャという作家が、ギャラリーでお客さんに料理をふるまう行為そのものを作品としていますが、利休の前例を考えると、少なくとも400年遅い。

震災で分断された町のコミュニケーションをつくる場として、歴史ある茶室の復活を考えてみたい。

8月に日本を去る前に、なにか結果を出したいです。






5 Blog: 2014 おととい、僕の実家、 宮城県亘理郡山元町坂元の茶室を保全したい 、とブログに書きましたが、僕はお茶が点てられない、ただの素人です。 しかし茶道という立ち居ふるまい、を「道」としてしまった文化には瞠目します。 20世紀になって、日常生活とアートの境目をとっぱらってしまおう、...

2014年6月4日水曜日

うちの近所で朽ち果てつつある仙台城の遺構について

祖父の実家のそばには歴史のある茶室が残っている、という話は子どもの頃から聞かされていました。

そばには立派な大手門と板倉もあり、地元の大條氏が、仙台藩12代目藩主の伊達斉邦から茶室と共に与えられたもの。もとを辿ると、大手門と茶室は、仙台藩初代の伊達政宗が、豊臣秀吉からもらったという説もある。その話が本当なら、この大手門は京都の伏見城から仙台城を経て、ここ坂元城本丸に移築されたということもあり得るらしい。

おなじく宮城県、松島にある観瀾亭は、政宗が秀吉からもらってきた茶室で、県の文化財指定を受けています。その観瀾亭とは姉妹関係にあるはずの、坂元の茶室は、現在このありさまです。






かりに秀吉=政宗という関連性がなかったにしても、この茶室、大手門、板倉の3つは仙台空襲でほとんど焼失してしまった仙台城跡で、ほとんど唯一現存するオリジナルの建築物。

どうして山元町はここまで放っておいたのか?

震災復興で多くのことが後回しにはなっているのでしょう。しかし、今すぐ直さないと、茶室は明日にでも崩れそうです。ちょっとした地震がきたら潰れるでしょう。

まずはこの情報を拡散して、補修・保存につなげられるようにしたいと思います。
5 Blog: 2014 祖父の実家のそばには歴史のある茶室が残っている、という話は子どもの頃から聞かされていました。 そばには立派な大手門と板倉もあり、地元の大條氏が、仙台藩12代目藩主の伊達斉邦から茶室と共に与えられたもの。もとを辿ると、大手門と茶室は、仙台藩初代の伊達政宗が、豊臣秀吉からもらった...

2014年6月3日火曜日

築地本願寺と新国立競技場

築地本願寺を今年初めて目にしました。

カナダから来た友達を築地の場外市場に案内したあと、予備知識なく本願寺の前を通ると、その建築の異様さに目を疑いました。

正門からのぞいた大きな石造りの建物は、今年2月に訪れたアンコール遺跡を思わせる。東京の寺なのに、もっと西のアジアの異界。しかも、門のわきにあるポスターには、境内備え付け(!)パイプオルガンリサイタルの案内。ますますよく分からない。

家に帰って本願寺について調べると、インドの寺院建築を模したものだと書いてあります。作った伊藤忠太という人物は、なかなかのくせ者。明治元年生まれ、山形出身。法隆寺の柱を見てエンタシスとの共通点にピンと来て、法隆寺ギリシャ起源を唱えたのも、彼が最初らしい。そこで西洋一辺倒の明治近代建築に違和感を覚え、1902年には日本建築の起源をユーラシアに探し、中国、ビルマ、インド、セイロン、トルコ、シリア、エジプトのほとんどを馬に乗って、3年も放浪したといいます。僕は、なんとなくその能率の悪さと粘り強さに東北人らしいものを感じるのですが、そこで彼は中国雲崗岩窟の中に、多種多様なインドやガンダーラ式仏像、ペルシャや東ローマ系の建築ディテール、さらにはイオニア式柱頭などが、中国周漢時代の伝統と混在しているのを発見します。この旅は、法隆寺ギリシャ起源論の証明には至らなかったものの、彼に「建築は進化し、変容し続けるもの」という信念を持たせたようです。

そんな彼のユニークで実に大きなアジア的思考から、関東大震災で焼失してしまった築地本願寺の再建は始まったようで、その本願寺の内部にも様々な動物が配置されていて、ディテールが生々しく、面白い。猿も、鶏も、象も、ライオンもいる、ディープな空間。





その彼がどうして年を取ってから、神社は木造でなければならない、という保守的な考えに移行し、明治神宮の建築をしていくのは、僕の勉強不足で分からないのですが、その明治神宮と代々木の森が、新しい東京オリンピック競技場によってまた大きく変容しつつある。伊藤忠太とザハ・ハディド。伊藤忠太は、この「進化」を受け入れたでしょうか?



5 Blog: 2014 築地本願寺を今年初めて目にしました。 カナダから来た友達を築地の場外市場に案内したあと、予備知識なく本願寺の前を通ると、その建築の異様さに目を疑いました。 正門からのぞいた大きな石造りの建物は、今年2月に訪れたアンコール遺跡を思わせる。東京の寺なのに、もっと西のアジアの異...

2014年5月31日土曜日

1300年前のうちの近所の話

前回のブログでエドワード・S・モースに触れましたが、きょうは、その考古学つながりの話。

両親の住む宮城県山元町の役場でみつけた小冊子によれば、山元町には実に100カ所以上の遺跡があるとのこと。ここ数年、急ピッチで進められている常磐自動車道、それから線路が流されてしまったあとの常磐線移設工事のおかげで、縄文後期から平安ぐらいまでの遺跡が次々に見つかってきているらしく、昨年12月には家のすぐそばの熊の作遺跡で東北最古級、8世紀初めの木簡が出土。

木簡には人の名前が連記され、彼らの出身地は信夫郡安岐里」。安岐里というのは現在の福島県福島市と川俣町の間に位置し、その「大伴部法麻呂」「丈部伊麻呂」「大伴部●麻呂」「丈部黒麻呂」という4人は、ここ山元町坂元の40キロ南からこの辺りに出稼ぎに来ていたらしい。熊の作遺跡と、その隣の向山遺跡からはたくさんの製鉄炉の跡が出土していて、その4人はたたら業に従事していたのではないか、というのが専門家の推測だそうです。

それにしても飛鳥か奈良時代の蝦夷(えみし)の地で、鉄をトンテンカン叩いて肉体労働に従事していたつましい4人が、1300年後の大津波で流された鉄道の移設工事のために、自分たちの名前が掘り出されて脚光をあびるとは夢にも思わなかったでしょうし、ひょっとしたら、迷惑なことだよ、ほっといてくれ、と思っているのかもしれない。

役場でもらった冊子に載っている近所の遺跡の分布図を見てみると、遺跡は幹線道路沿いや、森林が伐採された山や、造成工事のあとにある。つまりそれらは発掘以外の目的で掘削され、偶然に発見された遺跡がほとんどで、逆にいえば田んぼのある所には遺跡は見られない。とすれば、昔からの農地はただ掘られていないだけで、そこにも遺跡が眠っている可能性は十分にある。ひとつの町に100の遺跡があるというのはたいへんな数のようにも見えますが、日本の地面を掘り返せば、至る所から木簡やら土器やら石器やらが、どんどん出てくるのかもしれません。(実は僕の父も高校時代に近所のおじさんが自分の畑で見つけたという、縄文時代の石斧らしきもの、を持っています。)

しかし、現在では忘れられたような東北の田舎が、奈良時代の昔には、ひょっとしたら製鉄で栄えた大工業地帯であったというのは、ちょっと皮肉です。むろん、木簡が書かれた8世紀はじめ頃なんて、この辺一帯は日本(やまとですかね)という機構にも組み入れられていなかったでしょうし、もっと人々は堂々と生きていたんじゃないかなあ・・・と思うのは今の東北目線からくるひがみなのかもしれない。それでも、東北の始原に遡って考えてみることは、特に復興を目指す地域の現在において(復興という言葉は、前にあったものに戻すというニュアンスがあるので、なんとなく僕は嫌ですが)必要なことなのかもしれません。




5 Blog: 2014 前回のブログでエドワード・S・モースに触れましたが、きょうは、その考古学つながりの話。 両親の住む宮城県山元町の役場でみつけた小冊子によれば、山元町には実に100カ所以上の遺跡があるとのこと。ここ数年、急ピッチで進められている常磐自動車道、それから線路が流されてしまったあとの...

2014年5月29日木曜日

メイン、明治、メーソン

ここのところ、明治の日本について調べています。

というのも、日本の近代教育に大きく関わった2人のお雇い外国人が、メイン州出身であることを知り、あんなアメリカ北東部の最果ての地から、世界の極東(むろん、それはヨーロッパからみた世界ですが)日本へやって来たというのは偶然としても面白い。

ひとりは大森貝塚の発見で有名なエドワード・モース。もうひとりは伊澤修二と共に音楽取調掛(のちの東京芸術大学)と小学唱歌の編纂に関わったルーサー・ホワイティング・メーソン。

 

Luther Whiting Mason


メインに大学の仕事の面接で行った2005年に、ポートランドの街角に昭和の赤くて丸い郵便ポストが設置されているのを見て驚きました。すこしあとで、それらが大森貝塚のある品川から送られ、モースつながりでポートランドと品川が姉妹都市になっていたことを知りました。



しかし、メーソンという教育者が自分の勤めている大学そばの町に生まれ、また近くの墓地に眠っていることを知ったのは最近のこと。モースが長い船旅を終えて横浜に着き、その次の日に新橋までの汽車の車窓から貝塚を発見したエピソードは、その彼の伝説的な慧眼のゆえに有名ですが、メーソンの方は確かにあまり知られていない。日本では彼の名前が音楽史の教科書にちょこっと出てくることはあっても、彼の出生地であるターナーや、墓のあるバックフィールドにも、胸像のひとつさえない。

教育者、ましてや音楽の教育者というのはあまりにマイナーなので(ひがみでも何でもありませんが)、特にアメリカのような国では、野球選手か映画スターでもない限り、忘れ去られてしまうのかもしれない。(そういえば、もう1人の歴史に名を残したメイナー、映画監督ジョン・フォードの全身像は、なぜかYOSAKUという日本料理屋の前の交差点で少し偉そうにカウボーイハットとブーツに身を包み、パイプをくゆらせながら鎮座しています。)


John Ford in front of Yosaku Restaurant


それにしても明治の日本で、どもりだったといわれるメーソンと、音痴だったといわれる伊澤という突っ込みどころ満載の2人が、日本の西洋音楽教育の基礎を作ったというのは非常に面白い。もちろん、西洋音楽を聞いたことがなかった伊澤が、ドレミを歌うというハンディは相当なものだったようで、彼の苦労は無理もなく、そんなコンプレックスを乗り越えたからこそ、彼が教育者として成功しえたのかもしれない。伊澤はアメリカ滞在時に、電話を発明したアレキサンダー・グラハム・ベルから視話法(elocution)も学び、のちに東京盲唖学校の校長にもなっていて、日本人の身体そのものを近代化するという壮大な考えも持っていたらしく、そこに東洋的な身心論が見え隠れするところに、「和魂洋才」の明治を感じます。


伊沢修二「視話応用音韻新論」

それから、洋楽器をはじめて日本人に教えたときに、少しでも素養のある人々を集めようという取調掛の方針で、雅楽の楽士さんたちにオーボエやバイオリンを習わせたというところも、僕には興味深い。もう10年ほど前に、今は亡き東儀季信氏に宮内庁式楽部を案内して頂いて、楽部員の方々すべてが洋楽器のプロフェッショナルでもある、と教えて頂きました。外国の要人を出迎えて昼間は篳篥で越天楽、夜はオーボエに持ち替えてシュトラウスのワルツ、という彼らの離れ業も、日本の洋楽教育のDNAにはじめから組み込まれていたことになる。

このメーソンの聞いたオリエントの響きと、伊澤が苦労して学んだオキシデントの響きを、彼らの耳で聞けたらどんなに面白いだろうか、と思います。当時のオリエンタリズムとオキシデンタリズムいっぱいの視線を、この2人がどうやって折り合いを付けていったのか、それは今の音楽を考えるうえでも重要な鍵かもしれません。






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2014年5月28日水曜日

ざんぎり頭とCIVIL

3月の大阪場所で遠藤というお相撲さんを見て驚きました。

髷がない力士を認めるとは、相撲界もここまでリベラルになったのか、なるほど、外国人力士もたくさん入ってきたし、伝統芸能も様変わりしたもんだ。これなら茶髪でヤンキーのお相撲さんが出てくるのも時間の問題、とまで考えていたら、あとで遠藤は学生相撲から角入りして、髪が伸びる暇もなく昇進した話を聞いて、少しがっかり。ちょうど3月の大阪場所の彼のスタイルはざんぎり頭で、髷を結った力士と組んでいるのを見ると、どちらかといえば断髪式を済ませた千代の富士(少し古いですね)の頭を思い出しました。

ちょんまげを落とした侍の、「ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。」というのは、中学校の歴史の教科書に書いてある明治近代のキャッチフレーズ。この文明開化という言葉はcivilizationを福沢諭吉が訳したものらしいのですが、いま聞くとちょっと気張りすぎに感じる。英語でcivilという言葉には、「市民の」とか、「市民としての常識を持った」、あるいは「礼儀正しい」という意味がある。悪のりした仲間をたしなめるときに"Let's be civil about this."なんていう使い方をします。もちろんもとを辿れば、その市民はアリストレスが定義した市民国家のコミュニティの構成員ですから、その「発達した社会」の工学である「civil engineering」が「土木工学」であるというのもうなずけます。しかし、アリストテレスを持ち出してきても、文明開化という言葉は啓蒙的すぎるのではないか?

「ちょんまげ落としてざんぎり頭にした方が、かっこいいぜ、お兄ちゃん。」みたいなノリと、「文明開化」という漢語を合わせてフレーズにしてしまったところが、日本的なバランス感覚なのかもしれない。さらに、この文明という言葉は明治に作られた言葉であったわけで、それはハイカラに聞こえたでしょう。でも、黒船が来て、脅されて「文明」を突きつけられた歴史を考えると、外圧と文明は切り離せない。もっといえば、黒船の脅しは、英語で言うCIVILな「文明」的なものからもほど遠い。それから、明治以前に日本にあったものは、文明とはいえないのか、という疑問も出てくる。

明治維新から150年。とりあえず、文明に変わるもう少しマシな言葉はないのか、と考えてしまいます。







5 Blog: 2014 3月の大阪場所で遠藤というお相撲さんを見て驚きました。 髷がない力士を認めるとは、相撲界もここまでリベラルになったのか、なるほど、外国人力士もたくさん入ってきたし、伝統芸能も様変わりしたもんだ。これなら茶髪でヤンキーのお相撲さんが出てくるのも時間の問題、とまで考えていたら、あ...

2014年5月27日火曜日

北川フラム氏の講演で考えたこと

先週、東京芸術大学の図書館で調べ物をしていて、たまたま北川フラム氏の講演の案内が貼りだされているのを見つけました。講演はちょうどその夜。調べものを早めに切り上げて、会場の講堂へ向かいました。

北川氏は、瀬戸内国際芸術祭や大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレといった、巨大なアートフェスティバルのディレクター。芸術をまちおこしに、という発想を彼が思いついたかどうかは分かりませんが、これらの巨大イベントの成功は、「芸術まちおこし運動」を志す人々のロールモデルになっていることは確か。

音楽を作る者としては、アートなり音楽なりを社会の役に立てるという考えはあまり好きではありません。芸術に触れることで、社会や人生の見方を見直すきっかけになってほしいという思いはあっても、それがすぐに社会の役に立つという考え方は、ドイツ労働者党とワーグナーみたいに、空回りしてショートしてしまう恐ろしさがある。戦意を高揚させるための音楽、とか、民族優越を認識できる証左としての芸術、とか。社会の役に立てる、しかもそれはいま私たちの生きている資本主義社会である、という構造を考えると、ますます躊躇してしまいます。

しかし数年前に瀬戸内国際芸術祭を数年前に訪れたときに、町の人々の生き生きとした表情は印象に残っていました。もし、芸術を面白いと思う人間が増え、そこに外国のアーティストや異文化が入ってきて、交流の場が生まれる契機となれば、経済的意義は二のつぎかもしれない。

そんなことを考えてフラム氏の講演を聴きました。

彼は近代社会でこわれていったコミュニティを再生するための方法として、芸術がいちばん力がある、という信念を持っています。そのコミュニティを作る人間は自然に内包されている(この内包というところが大事で、共存と言ってしまうと自然と人間が同等の立場になってしまう、と氏は強調します)という認識からはじめています。それは瀬戸内でも越後でも、そこにある自然と人々の昔から続く営みの魅力をきちんと把握したうえで、地域住民と徹底的に話し合い、人と人がつながる場としてのフェスティバルを作り上げていく基礎になっている。3時間休みなく話す彼の姿を見て、地域住民の人々が彼にほだされた理由が分かった気がしました。

音楽も、美術も、話すことも、他人とどう関わるかという、コミュニケーションの問題が根底にある。ならば、アートを契機にコミュニケーションが立ち上がる場をつくることは、核心を突いている。僕も他人と戯れる場として、面白かったアーティストレジデンシーでの数々の経験があり、その楽しさをもっと多くの人と共有したいと思ったことがあります。

しかし、フラム氏を紹介するときに「アートによる町作り」をしてきた人という言葉でくくってしまうところに、僕は問題を感じてしまうのでした。

XXによるOOという、1万円でこれを買う、みたいな対価交換を感じさせる言葉に頼らなければいけないのは、なんだかさびしい。「取引」に使われる言葉で「説得」しなければいけない状況におかれることが、芸術からまず遠い。しかし、そんなことを言っていると、少なくとも今の社会からは取り残されて何も進まなくなるという現実があります。

フラム氏にとっては、まず行動が先なのでしょう。それを解釈する人がぐずぐずしているうちに、彼は次のプロジェクトに動いている、そんな気がしました。

資本主義によって形成されてきた、いまの言葉の意味と使い方は、考えなければいけない問題ではありますが。



5 Blog: 2014 先週、東京芸術大学の図書館で調べ物をしていて、たまたま北川フラム氏の講演の案内が貼りだされているのを見つけました。講演はちょうどその夜。調べものを早めに切り上げて、会場の講堂へ向かいました。 北川氏は、瀬戸内国際芸術祭や大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレといった、巨大...

2014年5月26日月曜日

ブログ再生

いろいろなところで以前にもつづれ書きらしきものを公表していましたが、大学からのサバティカルもあと3ヶ月となった時点で、いくつかの国を移動しながら考えてきたここ1年のまとめに入ろうと思い、ブログを再生することにしました。

2月末からの長い帰国のおかげで、ひさびさに日本語でじっくりものを考える時間ができました。両親の家に戻り、震災後、輪をかけるように人口が減り続ける福島県境に近い宮城の町から世界を見るという、なかなかできない経験を現在しています。

この家にはむかし祖父母が住み、仙台に育った僕は子供の頃よく遊びに来ていて、その頃は家のそばに小さいながらも1本道の商店街があり、ひとりっ子の僕が年上のいとこたちにつれられて、文房具やお菓子や海釣りのえさを買った店がいくつか軒を連ねていましたが、現在開いている店はもうほとんどありません。震災による津波で駅舎ごと流されてしまった常磐線を内陸部に迂回させたところに駅を作り、その周りにあらたな住宅地と商店街を作る方向で町の政治は動いていますが、それで人口減少に歯止めがかかるとは思えず、そもそも国外に住んでいる自分がそこで頭を悩ませること自体、おこがましい気もします。

20年以上カナダとアメリカに住み続け、パスポートは便宜上の紙としか思っていない自分には日本という国家的システムに愛着もなく、期待もしない。しかし両親や地元の友人から広がっている文化や地域は、遠くに住んでいると、残滓のように漠然と自分の中に巣くう感覚ですが、帰ってきてみると、それが自分の身体感覚としてリアルになり、自然に感じられてくる。それが、郷里というものなのかもしれません。

いっぽうで、僕は高度経済成長後の仙台という地方都市に育ち、近代化された都市風景そのものに愛着があるゆえに、安全の確保が出来て、ある程度の都市であれば北米でも南米でもヨーロッパでも生きていける、しかも快適に住めるとも思う。自分の育った1980年代は、まだ「国際化」や、「21世紀」という言葉に夢があり、僕はコスモポリタンになることに強いあこがれを抱いていました。そういう点では、自分は表層的なコスモポリタンになることには成功しましたが、やはり近代化された空間は勝手が同じであることを目的に作られた国際空港のようなもので、平準化された世界はあまり、というか、かなり面白くない。

近代化の波のおかげで人口が都市に流出し、さらに原発や津波で急な方向の見直しを迫られて、両親の住むこの町に残っているのは、田んぼと畑を中心とした空間と、仮設住宅を含む、分断された空間。津波でほとんどの建物が流された、家から歩いて15分ほどの沿岸部は、平準化どころか自然に戻ってしまっています。

そう考えているうちに、そのきびしい空間を内包した東北の地方と、日本の外にある地方を、ダイレクトにそのまま結びつることができたら面白いかもしれない、と思い始めました。グローバルに開かれていながらローカルである、という不思議な空間が生まれれば、もう少し町に活気が戻るのではないか?

漠然とアメリカでの仕事を続けながら、こういう郷里を「生かす」仕事を具体的にどうやっていくのか、という難しい問題はあります。しかし、情報化社会とグローバリゼーションの利点は、遠隔操作で仕事ができるところ。

自分の手の届く範囲内を見きわめつつ、少しずつその範囲を広げながらこれから何が出来るのか考えていこうと思っています。


5 Blog: 2014 いろいろなところで以前にもつづれ書きらしきものを公表していましたが、大学からのサバティカルもあと3ヶ月となった時点で、いくつかの国を移動しながら考えてきたここ1年のまとめに入ろうと思い、ブログを再生することにしました。 2月末からの長い帰国のおかげで、ひさびさに日本語でじっく...
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