2014年5月31日土曜日

1300年前のうちの近所の話

前回のブログでエドワード・S・モースに触れましたが、きょうは、その考古学つながりの話。

両親の住む宮城県山元町の役場でみつけた小冊子によれば、山元町には実に100カ所以上の遺跡があるとのこと。ここ数年、急ピッチで進められている常磐自動車道、それから線路が流されてしまったあとの常磐線移設工事のおかげで、縄文後期から平安ぐらいまでの遺跡が次々に見つかってきているらしく、昨年12月には家のすぐそばの熊の作遺跡で東北最古級、8世紀初めの木簡が出土。

木簡には人の名前が連記され、彼らの出身地は信夫郡安岐里」。安岐里というのは現在の福島県福島市と川俣町の間に位置し、その「大伴部法麻呂」「丈部伊麻呂」「大伴部●麻呂」「丈部黒麻呂」という4人は、ここ山元町坂元の40キロ南からこの辺りに出稼ぎに来ていたらしい。熊の作遺跡と、その隣の向山遺跡からはたくさんの製鉄炉の跡が出土していて、その4人はたたら業に従事していたのではないか、というのが専門家の推測だそうです。

それにしても飛鳥か奈良時代の蝦夷(えみし)の地で、鉄をトンテンカン叩いて肉体労働に従事していたつましい4人が、1300年後の大津波で流された鉄道の移設工事のために、自分たちの名前が掘り出されて脚光をあびるとは夢にも思わなかったでしょうし、ひょっとしたら、迷惑なことだよ、ほっといてくれ、と思っているのかもしれない。

役場でもらった冊子に載っている近所の遺跡の分布図を見てみると、遺跡は幹線道路沿いや、森林が伐採された山や、造成工事のあとにある。つまりそれらは発掘以外の目的で掘削され、偶然に発見された遺跡がほとんどで、逆にいえば田んぼのある所には遺跡は見られない。とすれば、昔からの農地はただ掘られていないだけで、そこにも遺跡が眠っている可能性は十分にある。ひとつの町に100の遺跡があるというのはたいへんな数のようにも見えますが、日本の地面を掘り返せば、至る所から木簡やら土器やら石器やらが、どんどん出てくるのかもしれません。(実は僕の父も高校時代に近所のおじさんが自分の畑で見つけたという、縄文時代の石斧らしきもの、を持っています。)

しかし、現在では忘れられたような東北の田舎が、奈良時代の昔には、ひょっとしたら製鉄で栄えた大工業地帯であったというのは、ちょっと皮肉です。むろん、木簡が書かれた8世紀はじめ頃なんて、この辺一帯は日本(やまとですかね)という機構にも組み入れられていなかったでしょうし、もっと人々は堂々と生きていたんじゃないかなあ・・・と思うのは今の東北目線からくるひがみなのかもしれない。それでも、東北の始原に遡って考えてみることは、特に復興を目指す地域の現在において(復興という言葉は、前にあったものに戻すというニュアンスがあるので、なんとなく僕は嫌ですが)必要なことなのかもしれません。




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2014年5月29日木曜日

メイン、明治、メーソン

ここのところ、明治の日本について調べています。

というのも、日本の近代教育に大きく関わった2人のお雇い外国人が、メイン州出身であることを知り、あんなアメリカ北東部の最果ての地から、世界の極東(むろん、それはヨーロッパからみた世界ですが)日本へやって来たというのは偶然としても面白い。

ひとりは大森貝塚の発見で有名なエドワード・モース。もうひとりは伊澤修二と共に音楽取調掛(のちの東京芸術大学)と小学唱歌の編纂に関わったルーサー・ホワイティング・メーソン。

 

Luther Whiting Mason


メインに大学の仕事の面接で行った2005年に、ポートランドの街角に昭和の赤くて丸い郵便ポストが設置されているのを見て驚きました。すこしあとで、それらが大森貝塚のある品川から送られ、モースつながりでポートランドと品川が姉妹都市になっていたことを知りました。



しかし、メーソンという教育者が自分の勤めている大学そばの町に生まれ、また近くの墓地に眠っていることを知ったのは最近のこと。モースが長い船旅を終えて横浜に着き、その次の日に新橋までの汽車の車窓から貝塚を発見したエピソードは、その彼の伝説的な慧眼のゆえに有名ですが、メーソンの方は確かにあまり知られていない。日本では彼の名前が音楽史の教科書にちょこっと出てくることはあっても、彼の出生地であるターナーや、墓のあるバックフィールドにも、胸像のひとつさえない。

教育者、ましてや音楽の教育者というのはあまりにマイナーなので(ひがみでも何でもありませんが)、特にアメリカのような国では、野球選手か映画スターでもない限り、忘れ去られてしまうのかもしれない。(そういえば、もう1人の歴史に名を残したメイナー、映画監督ジョン・フォードの全身像は、なぜかYOSAKUという日本料理屋の前の交差点で少し偉そうにカウボーイハットとブーツに身を包み、パイプをくゆらせながら鎮座しています。)


John Ford in front of Yosaku Restaurant


それにしても明治の日本で、どもりだったといわれるメーソンと、音痴だったといわれる伊澤という突っ込みどころ満載の2人が、日本の西洋音楽教育の基礎を作ったというのは非常に面白い。もちろん、西洋音楽を聞いたことがなかった伊澤が、ドレミを歌うというハンディは相当なものだったようで、彼の苦労は無理もなく、そんなコンプレックスを乗り越えたからこそ、彼が教育者として成功しえたのかもしれない。伊澤はアメリカ滞在時に、電話を発明したアレキサンダー・グラハム・ベルから視話法(elocution)も学び、のちに東京盲唖学校の校長にもなっていて、日本人の身体そのものを近代化するという壮大な考えも持っていたらしく、そこに東洋的な身心論が見え隠れするところに、「和魂洋才」の明治を感じます。


伊沢修二「視話応用音韻新論」

それから、洋楽器をはじめて日本人に教えたときに、少しでも素養のある人々を集めようという取調掛の方針で、雅楽の楽士さんたちにオーボエやバイオリンを習わせたというところも、僕には興味深い。もう10年ほど前に、今は亡き東儀季信氏に宮内庁式楽部を案内して頂いて、楽部員の方々すべてが洋楽器のプロフェッショナルでもある、と教えて頂きました。外国の要人を出迎えて昼間は篳篥で越天楽、夜はオーボエに持ち替えてシュトラウスのワルツ、という彼らの離れ業も、日本の洋楽教育のDNAにはじめから組み込まれていたことになる。

このメーソンの聞いたオリエントの響きと、伊澤が苦労して学んだオキシデントの響きを、彼らの耳で聞けたらどんなに面白いだろうか、と思います。当時のオリエンタリズムとオキシデンタリズムいっぱいの視線を、この2人がどうやって折り合いを付けていったのか、それは今の音楽を考えるうえでも重要な鍵かもしれません。






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2014年5月28日水曜日

ざんぎり頭とCIVIL

3月の大阪場所で遠藤というお相撲さんを見て驚きました。

髷がない力士を認めるとは、相撲界もここまでリベラルになったのか、なるほど、外国人力士もたくさん入ってきたし、伝統芸能も様変わりしたもんだ。これなら茶髪でヤンキーのお相撲さんが出てくるのも時間の問題、とまで考えていたら、あとで遠藤は学生相撲から角入りして、髪が伸びる暇もなく昇進した話を聞いて、少しがっかり。ちょうど3月の大阪場所の彼のスタイルはざんぎり頭で、髷を結った力士と組んでいるのを見ると、どちらかといえば断髪式を済ませた千代の富士(少し古いですね)の頭を思い出しました。

ちょんまげを落とした侍の、「ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。」というのは、中学校の歴史の教科書に書いてある明治近代のキャッチフレーズ。この文明開化という言葉はcivilizationを福沢諭吉が訳したものらしいのですが、いま聞くとちょっと気張りすぎに感じる。英語でcivilという言葉には、「市民の」とか、「市民としての常識を持った」、あるいは「礼儀正しい」という意味がある。悪のりした仲間をたしなめるときに"Let's be civil about this."なんていう使い方をします。もちろんもとを辿れば、その市民はアリストレスが定義した市民国家のコミュニティの構成員ですから、その「発達した社会」の工学である「civil engineering」が「土木工学」であるというのもうなずけます。しかし、アリストテレスを持ち出してきても、文明開化という言葉は啓蒙的すぎるのではないか?

「ちょんまげ落としてざんぎり頭にした方が、かっこいいぜ、お兄ちゃん。」みたいなノリと、「文明開化」という漢語を合わせてフレーズにしてしまったところが、日本的なバランス感覚なのかもしれない。さらに、この文明という言葉は明治に作られた言葉であったわけで、それはハイカラに聞こえたでしょう。でも、黒船が来て、脅されて「文明」を突きつけられた歴史を考えると、外圧と文明は切り離せない。もっといえば、黒船の脅しは、英語で言うCIVILな「文明」的なものからもほど遠い。それから、明治以前に日本にあったものは、文明とはいえないのか、という疑問も出てくる。

明治維新から150年。とりあえず、文明に変わるもう少しマシな言葉はないのか、と考えてしまいます。







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2014年5月27日火曜日

北川フラム氏の講演で考えたこと

先週、東京芸術大学の図書館で調べ物をしていて、たまたま北川フラム氏の講演の案内が貼りだされているのを見つけました。講演はちょうどその夜。調べものを早めに切り上げて、会場の講堂へ向かいました。

北川氏は、瀬戸内国際芸術祭や大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレといった、巨大なアートフェスティバルのディレクター。芸術をまちおこしに、という発想を彼が思いついたかどうかは分かりませんが、これらの巨大イベントの成功は、「芸術まちおこし運動」を志す人々のロールモデルになっていることは確か。

音楽を作る者としては、アートなり音楽なりを社会の役に立てるという考えはあまり好きではありません。芸術に触れることで、社会や人生の見方を見直すきっかけになってほしいという思いはあっても、それがすぐに社会の役に立つという考え方は、ドイツ労働者党とワーグナーみたいに、空回りしてショートしてしまう恐ろしさがある。戦意を高揚させるための音楽、とか、民族優越を認識できる証左としての芸術、とか。社会の役に立てる、しかもそれはいま私たちの生きている資本主義社会である、という構造を考えると、ますます躊躇してしまいます。

しかし数年前に瀬戸内国際芸術祭を数年前に訪れたときに、町の人々の生き生きとした表情は印象に残っていました。もし、芸術を面白いと思う人間が増え、そこに外国のアーティストや異文化が入ってきて、交流の場が生まれる契機となれば、経済的意義は二のつぎかもしれない。

そんなことを考えてフラム氏の講演を聴きました。

彼は近代社会でこわれていったコミュニティを再生するための方法として、芸術がいちばん力がある、という信念を持っています。そのコミュニティを作る人間は自然に内包されている(この内包というところが大事で、共存と言ってしまうと自然と人間が同等の立場になってしまう、と氏は強調します)という認識からはじめています。それは瀬戸内でも越後でも、そこにある自然と人々の昔から続く営みの魅力をきちんと把握したうえで、地域住民と徹底的に話し合い、人と人がつながる場としてのフェスティバルを作り上げていく基礎になっている。3時間休みなく話す彼の姿を見て、地域住民の人々が彼にほだされた理由が分かった気がしました。

音楽も、美術も、話すことも、他人とどう関わるかという、コミュニケーションの問題が根底にある。ならば、アートを契機にコミュニケーションが立ち上がる場をつくることは、核心を突いている。僕も他人と戯れる場として、面白かったアーティストレジデンシーでの数々の経験があり、その楽しさをもっと多くの人と共有したいと思ったことがあります。

しかし、フラム氏を紹介するときに「アートによる町作り」をしてきた人という言葉でくくってしまうところに、僕は問題を感じてしまうのでした。

XXによるOOという、1万円でこれを買う、みたいな対価交換を感じさせる言葉に頼らなければいけないのは、なんだかさびしい。「取引」に使われる言葉で「説得」しなければいけない状況におかれることが、芸術からまず遠い。しかし、そんなことを言っていると、少なくとも今の社会からは取り残されて何も進まなくなるという現実があります。

フラム氏にとっては、まず行動が先なのでしょう。それを解釈する人がぐずぐずしているうちに、彼は次のプロジェクトに動いている、そんな気がしました。

資本主義によって形成されてきた、いまの言葉の意味と使い方は、考えなければいけない問題ではありますが。



5 Blog: 5月 2014 先週、東京芸術大学の図書館で調べ物をしていて、たまたま北川フラム氏の講演の案内が貼りだされているのを見つけました。講演はちょうどその夜。調べものを早めに切り上げて、会場の講堂へ向かいました。 北川氏は、瀬戸内国際芸術祭や大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレといった、巨大...

2014年5月26日月曜日

ブログ再生

いろいろなところで以前にもつづれ書きらしきものを公表していましたが、大学からのサバティカルもあと3ヶ月となった時点で、いくつかの国を移動しながら考えてきたここ1年のまとめに入ろうと思い、ブログを再生することにしました。

2月末からの長い帰国のおかげで、ひさびさに日本語でじっくりものを考える時間ができました。両親の家に戻り、震災後、輪をかけるように人口が減り続ける福島県境に近い宮城の町から世界を見るという、なかなかできない経験を現在しています。

この家にはむかし祖父母が住み、仙台に育った僕は子供の頃よく遊びに来ていて、その頃は家のそばに小さいながらも1本道の商店街があり、ひとりっ子の僕が年上のいとこたちにつれられて、文房具やお菓子や海釣りのえさを買った店がいくつか軒を連ねていましたが、現在開いている店はもうほとんどありません。震災による津波で駅舎ごと流されてしまった常磐線を内陸部に迂回させたところに駅を作り、その周りにあらたな住宅地と商店街を作る方向で町の政治は動いていますが、それで人口減少に歯止めがかかるとは思えず、そもそも国外に住んでいる自分がそこで頭を悩ませること自体、おこがましい気もします。

20年以上カナダとアメリカに住み続け、パスポートは便宜上の紙としか思っていない自分には日本という国家的システムに愛着もなく、期待もしない。しかし両親や地元の友人から広がっている文化や地域は、遠くに住んでいると、残滓のように漠然と自分の中に巣くう感覚ですが、帰ってきてみると、それが自分の身体感覚としてリアルになり、自然に感じられてくる。それが、郷里というものなのかもしれません。

いっぽうで、僕は高度経済成長後の仙台という地方都市に育ち、近代化された都市風景そのものに愛着があるゆえに、安全の確保が出来て、ある程度の都市であれば北米でも南米でもヨーロッパでも生きていける、しかも快適に住めるとも思う。自分の育った1980年代は、まだ「国際化」や、「21世紀」という言葉に夢があり、僕はコスモポリタンになることに強いあこがれを抱いていました。そういう点では、自分は表層的なコスモポリタンになることには成功しましたが、やはり近代化された空間は勝手が同じであることを目的に作られた国際空港のようなもので、平準化された世界はあまり、というか、かなり面白くない。

近代化の波のおかげで人口が都市に流出し、さらに原発や津波で急な方向の見直しを迫られて、両親の住むこの町に残っているのは、田んぼと畑を中心とした空間と、仮設住宅を含む、分断された空間。津波でほとんどの建物が流された、家から歩いて15分ほどの沿岸部は、平準化どころか自然に戻ってしまっています。

そう考えているうちに、そのきびしい空間を内包した東北の地方と、日本の外にある地方を、ダイレクトにそのまま結びつることができたら面白いかもしれない、と思い始めました。グローバルに開かれていながらローカルである、という不思議な空間が生まれれば、もう少し町に活気が戻るのではないか?

漠然とアメリカでの仕事を続けながら、こういう郷里を「生かす」仕事を具体的にどうやっていくのか、という難しい問題はあります。しかし、情報化社会とグローバリゼーションの利点は、遠隔操作で仕事ができるところ。

自分の手の届く範囲内を見きわめつつ、少しずつその範囲を広げながらこれから何が出来るのか考えていこうと思っています。


5 Blog: 5月 2014 いろいろなところで以前にもつづれ書きらしきものを公表していましたが、大学からのサバティカルもあと3ヶ月となった時点で、いくつかの国を移動しながら考えてきたここ1年のまとめに入ろうと思い、ブログを再生することにしました。 2月末からの長い帰国のおかげで、ひさびさに日本語でじっく...
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