2014年5月27日火曜日

北川フラム氏の講演で考えたこと

先週、東京芸術大学の図書館で調べ物をしていて、たまたま北川フラム氏の講演の案内が貼りだされているのを見つけました。講演はちょうどその夜。調べものを早めに切り上げて、会場の講堂へ向かいました。

北川氏は、瀬戸内国際芸術祭や大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレといった、巨大なアートフェスティバルのディレクター。芸術をまちおこしに、という発想を彼が思いついたかどうかは分かりませんが、これらの巨大イベントの成功は、「芸術まちおこし運動」を志す人々のロールモデルになっていることは確か。

音楽を作る者としては、アートなり音楽なりを社会の役に立てるという考えはあまり好きではありません。芸術に触れることで、社会や人生の見方を見直すきっかけになってほしいという思いはあっても、それがすぐに社会の役に立つという考え方は、ドイツ労働者党とワーグナーみたいに、空回りしてショートしてしまう恐ろしさがある。戦意を高揚させるための音楽、とか、民族優越を認識できる証左としての芸術、とか。社会の役に立てる、しかもそれはいま私たちの生きている資本主義社会である、という構造を考えると、ますます躊躇してしまいます。

しかし数年前に瀬戸内国際芸術祭を数年前に訪れたときに、町の人々の生き生きとした表情は印象に残っていました。もし、芸術を面白いと思う人間が増え、そこに外国のアーティストや異文化が入ってきて、交流の場が生まれる契機となれば、経済的意義は二のつぎかもしれない。

そんなことを考えてフラム氏の講演を聴きました。

彼は近代社会でこわれていったコミュニティを再生するための方法として、芸術がいちばん力がある、という信念を持っています。そのコミュニティを作る人間は自然に内包されている(この内包というところが大事で、共存と言ってしまうと自然と人間が同等の立場になってしまう、と氏は強調します)という認識からはじめています。それは瀬戸内でも越後でも、そこにある自然と人々の昔から続く営みの魅力をきちんと把握したうえで、地域住民と徹底的に話し合い、人と人がつながる場としてのフェスティバルを作り上げていく基礎になっている。3時間休みなく話す彼の姿を見て、地域住民の人々が彼にほだされた理由が分かった気がしました。

音楽も、美術も、話すことも、他人とどう関わるかという、コミュニケーションの問題が根底にある。ならば、アートを契機にコミュニケーションが立ち上がる場をつくることは、核心を突いている。僕も他人と戯れる場として、面白かったアーティストレジデンシーでの数々の経験があり、その楽しさをもっと多くの人と共有したいと思ったことがあります。

しかし、フラム氏を紹介するときに「アートによる町作り」をしてきた人という言葉でくくってしまうところに、僕は問題を感じてしまうのでした。

XXによるOOという、1万円でこれを買う、みたいな対価交換を感じさせる言葉に頼らなければいけないのは、なんだかさびしい。「取引」に使われる言葉で「説得」しなければいけない状況におかれることが、芸術からまず遠い。しかし、そんなことを言っていると、少なくとも今の社会からは取り残されて何も進まなくなるという現実があります。

フラム氏にとっては、まず行動が先なのでしょう。それを解釈する人がぐずぐずしているうちに、彼は次のプロジェクトに動いている、そんな気がしました。

資本主義によって形成されてきた、いまの言葉の意味と使い方は、考えなければいけない問題ではありますが。



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