2014年5月29日木曜日

メイン、明治、メーソン

ここのところ、明治の日本について調べています。

というのも、日本の近代教育に大きく関わった2人のお雇い外国人が、メイン州出身であることを知り、あんなアメリカ北東部の最果ての地から、世界の極東(むろん、それはヨーロッパからみた世界ですが)日本へやって来たというのは偶然としても面白い。

ひとりは大森貝塚の発見で有名なエドワード・モース。もうひとりは伊澤修二と共に音楽取調掛(のちの東京芸術大学)と小学唱歌の編纂に関わったルーサー・ホワイティング・メーソン。

 

Luther Whiting Mason


メインに大学の仕事の面接で行った2005年に、ポートランドの街角に昭和の赤くて丸い郵便ポストが設置されているのを見て驚きました。すこしあとで、それらが大森貝塚のある品川から送られ、モースつながりでポートランドと品川が姉妹都市になっていたことを知りました。



しかし、メーソンという教育者が自分の勤めている大学そばの町に生まれ、また近くの墓地に眠っていることを知ったのは最近のこと。モースが長い船旅を終えて横浜に着き、その次の日に新橋までの汽車の車窓から貝塚を発見したエピソードは、その彼の伝説的な慧眼のゆえに有名ですが、メーソンの方は確かにあまり知られていない。日本では彼の名前が音楽史の教科書にちょこっと出てくることはあっても、彼の出生地であるターナーや、墓のあるバックフィールドにも、胸像のひとつさえない。

教育者、ましてや音楽の教育者というのはあまりにマイナーなので(ひがみでも何でもありませんが)、特にアメリカのような国では、野球選手か映画スターでもない限り、忘れ去られてしまうのかもしれない。(そういえば、もう1人の歴史に名を残したメイナー、映画監督ジョン・フォードの全身像は、なぜかYOSAKUという日本料理屋の前の交差点で少し偉そうにカウボーイハットとブーツに身を包み、パイプをくゆらせながら鎮座しています。)


John Ford in front of Yosaku Restaurant


それにしても明治の日本で、どもりだったといわれるメーソンと、音痴だったといわれる伊澤という突っ込みどころ満載の2人が、日本の西洋音楽教育の基礎を作ったというのは非常に面白い。もちろん、西洋音楽を聞いたことがなかった伊澤が、ドレミを歌うというハンディは相当なものだったようで、彼の苦労は無理もなく、そんなコンプレックスを乗り越えたからこそ、彼が教育者として成功しえたのかもしれない。伊澤はアメリカ滞在時に、電話を発明したアレキサンダー・グラハム・ベルから視話法(elocution)も学び、のちに東京盲唖学校の校長にもなっていて、日本人の身体そのものを近代化するという壮大な考えも持っていたらしく、そこに東洋的な身心論が見え隠れするところに、「和魂洋才」の明治を感じます。


伊沢修二「視話応用音韻新論」

それから、洋楽器をはじめて日本人に教えたときに、少しでも素養のある人々を集めようという取調掛の方針で、雅楽の楽士さんたちにオーボエやバイオリンを習わせたというところも、僕には興味深い。もう10年ほど前に、今は亡き東儀季信氏に宮内庁式楽部を案内して頂いて、楽部員の方々すべてが洋楽器のプロフェッショナルでもある、と教えて頂きました。外国の要人を出迎えて昼間は篳篥で越天楽、夜はオーボエに持ち替えてシュトラウスのワルツ、という彼らの離れ業も、日本の洋楽教育のDNAにはじめから組み込まれていたことになる。

このメーソンの聞いたオリエントの響きと、伊澤が苦労して学んだオキシデントの響きを、彼らの耳で聞けたらどんなに面白いだろうか、と思います。当時のオリエンタリズムとオキシデンタリズムいっぱいの視線を、この2人がどうやって折り合いを付けていったのか、それは今の音楽を考えるうえでも重要な鍵かもしれません。






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