2014年5月28日水曜日

ざんぎり頭とCIVIL

3月の大阪場所で遠藤というお相撲さんを見て驚きました。

髷がない力士を認めるとは、相撲界もここまでリベラルになったのか、なるほど、外国人力士もたくさん入ってきたし、伝統芸能も様変わりしたもんだ。これなら茶髪でヤンキーのお相撲さんが出てくるのも時間の問題、とまで考えていたら、あとで遠藤は学生相撲から角入りして、髪が伸びる暇もなく昇進した話を聞いて、少しがっかり。ちょうど3月の大阪場所の彼のスタイルはざんぎり頭で、髷を結った力士と組んでいるのを見ると、どちらかといえば断髪式を済ませた千代の富士(少し古いですね)の頭を思い出しました。

ちょんまげを落とした侍の、「ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。」というのは、中学校の歴史の教科書に書いてある明治近代のキャッチフレーズ。この文明開化という言葉はcivilizationを福沢諭吉が訳したものらしいのですが、いま聞くとちょっと気張りすぎに感じる。英語でcivilという言葉には、「市民の」とか、「市民としての常識を持った」、あるいは「礼儀正しい」という意味がある。悪のりした仲間をたしなめるときに"Let's be civil about this."なんていう使い方をします。もちろんもとを辿れば、その市民はアリストレスが定義した市民国家のコミュニティの構成員ですから、その「発達した社会」の工学である「civil engineering」が「土木工学」であるというのもうなずけます。しかし、アリストテレスを持ち出してきても、文明開化という言葉は啓蒙的すぎるのではないか?

「ちょんまげ落としてざんぎり頭にした方が、かっこいいぜ、お兄ちゃん。」みたいなノリと、「文明開化」という漢語を合わせてフレーズにしてしまったところが、日本的なバランス感覚なのかもしれない。さらに、この文明という言葉は明治に作られた言葉であったわけで、それはハイカラに聞こえたでしょう。でも、黒船が来て、脅されて「文明」を突きつけられた歴史を考えると、外圧と文明は切り離せない。もっといえば、黒船の脅しは、英語で言うCIVILな「文明」的なものからもほど遠い。それから、明治以前に日本にあったものは、文明とはいえないのか、という疑問も出てくる。

明治維新から150年。とりあえず、文明に変わるもう少しマシな言葉はないのか、と考えてしまいます。







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