前回のブログで、ワーグナーのオペラ「ニーベルングの指環」のアンヴィル(鉄立)の合奏について触れましたが、4作から成る「指環」の2作目、「ラインの黄金」の2場に出てきます。(2:40以降)
それから、ヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」にも。
これらは、もちろん演劇と音楽が融合された「歌劇」ですから、音楽も舞台上のアクションを忠実に反映し、音に具体的な「意味」が担わされています。普通の「絶対音楽」と呼ばれる、クラシックのインストゥルメンタル曲では、通常「ドミソ」というピッチの集合は、ドミソという和音以外のなにものでもなく、それが指環や、飛行機や、片想いや、媚薬であったりすることはありません。
しかし音楽も、その昔は他の芸術と同じように現実世界の「模倣」が基本になっていると考えられていました。
プラトンはこう言っています。
「音楽の時間と旋律は性格(エートス)を、我々に想起させる(具体的な)イメージを与える。」
彼はつまり、私たちが、ある音楽を聞いて悲しいと感じるのは、その音楽が私たちの心に「悲しい」という具体的なイメージをもたらすからであり、絵画に描かれた「家」を見て、私たちが実際の「家」を想像できるのと同じだ、と言っているわけです。
これが、アリストテレスの掲げる「模倣」(Mimesis)があらゆる芸術の根底にある、という思想です。
僕は基本的に、音楽は抽象的なものだと思っています。440hzという空気の振動は、それ以上でもそれ以下でもないと考えます。しかし、自分で音楽を作るときには、音以外のものから得たイメージが、役に立つことはあります。
20世紀になって、音楽の抽象性だけが強調されるようになり、その反動としてMimeticな音楽の新しい可能性も出てきました。それは、楽器から出る音や、他のいろいろな音を科学的に分析することによって、音の生成の仕方、音色、音響、そういったこれまでよく解明されなかったことが分かるようになり、科学的に音を分析し、その結果を作曲または演奏の材料とすることを可能にしたからです。
例えば、黛敏郎の「涅槃交響曲」。これは梵鐘の音を科学的に解析した音を、オーケストラのハーモニーに「翻訳」して、曲の構成に使ったもの。
それから、ペーター・アブリンガー の古今東西の人物(毛沢東からマザー・テレサ、アポリネールからパゾリーニまで!)のスピーチパターンを分析し、その癖をピアノの伴奏に「翻訳」したこれ。
あるいは海岸に打ち寄せる波を解析して、音色とハーモニーの構成論理を作り、壮大な管弦楽曲とした、畏師トリスタン・ミュライユのこれ。
厳密に言えば、こうして使っている言葉も、「現実」を象徴しているだけであって、「海」という言葉はあの膨大な量の水が寄せては返し、水平線を越えて広がっている、それ、そのものではありません。この絵のように。
こうして作られた音楽も、象徴されたもの、あるいはその具体的な発想の種子から大きく変容させられて何か別なものになっていることが面白く、音楽は空気を震わす波形としか存在しえないことに、僕は逆に豊かさを感じます。