2014年6月18日水曜日

3日間、邦楽について考えたこと。

「平安の遊び心を現代に」というテーマで、土曜日はコロンビア大学中世日本研究所主催のコンサート、続いて日曜日は日本音楽サミット、それから昨日月曜日には一柳慧氏の邦楽器と西洋楽器のための曲を集めた個展、という盛りだくさんの3日間を終えました。

サミットのお題は、伝統邦楽の愛好家や演奏家が年々減り続けるなかで、日本人も外国人も、分け隔てなく邦楽器を学べる環境をつくるためのイニシアティブ。

それぞれの立場を越えて、教育者、財団や劇場といった組織の長、ジャーナリスト、プロデューサー、演奏家などによる話し合いが持たれました。僕は単なるオブザーバーでしたが、これらの人々が一同に介したことが、これまでほとんどなかったところから始めるわけですから、これから先は長いのですが、コロンビア大学が良い意味での外圧になれれば、膠着した状況を抜け出す糸口が見つかるかもしれない。

4つに分けられた戦略チームの報告を聞いていると、参加者の立場や見解の相違以上に、邦楽の置かれた危機的な状況が見えてきました。若い世代の興味をひくことができず、後継者が育たない。楽器をたしなむ人口が減ると、楽器商が成り立たなくなる。楽器が手に入りにくいので、さらに楽器を始める人が少なくなるという悪循環。

邦楽の話をすると、「日本文化は素晴らしい−>日本文化は守られるべきだ−>西洋崇拝から脱却しよう」という文脈になりがちです。しかし、日本文化 vs 西洋文化という二項対立からできるだけ離れた方が、建設的な話し合いができるはずです。

文化は競争するものでもなく(競争したって、J-Popも歌謡曲もなくならないし、取りあえず今は西洋音楽に勝ちっこない)、語学教育や算数ならともかく、芸術の教育を、「成功」というはっきりとした経済的な物差しでは考えられない。

日本における西洋音楽は、一面では西洋人の「立派な」身体に追いつくために、唱歌を使って身体改造をも目論んだ官製文化が発端でした。唱歌を書いた山田耕筰が、のちに戦意を高揚させる軍歌を多く書くことになったのは、偶然ではないように思えます。

芸術はわたしたちの無意識に働きかけるだけに、政治利用はたやすい。
例えばオリンピックのポスターのデザインや、フォントの選択に至るまで、それらが私たちを意図的にどこかに導いている可能性を考えると、夜も眠れなくなってしまいます。

僕はただ単に、長唄なり地唄や、他の絶滅危惧種である邦楽の様々が、世界の大きな生態系からなくなるのはあまりに寂しいから、単純に守っていきたいと思うわけです。天然記念物の動物がいなくなるのとあまり変わりがない。もちろん、人間−>動物のような上から目線でもなく、帝国主義者が植民地の文化に向ける、擁護者としての目線でもなく、純粋に一緒に守っていきたい、と思います。

フタコブラクダがモンゴル人のアイデンティティにとって重要であるか、とか、イリオモテヤマネコの琉球文化における認識とか、あまり考えてもしょうがない。

演奏家をフタコブラクダだとすれば、フタコブラクダはモンゴル人のアイデンティティなんか、どうでもよいはず。

僕にはフタコブラクダの形も顔もかなり面白いので、いなくなったらとても残念、それしか考えられません。

ともかく、ディスカッションは始まったばかりなのでした。
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