2014年7月28日月曜日

熊野へ

カナダから友人の息子、ルカが来ていて、少し旅をした。

関西を回り、以前から惹かれていた熊野へ行った。その印象は、期待をこえて圧倒的であった。

きのくに線を使って田辺駅で降り、バスに乗って湯峰温泉に着くまで、大阪、天王寺から約6時間。隣の県なのに、とにかく遠い。

山あいを縫うようにして移動すると、山が何層にも折り重なってそびえているのがわかる。ドイツのブラック・フォーレストともまた異質の、深くて暗い緑の森。



 湯峰温泉から熊野本宮大社まで歩くと、すでに黄昏時。宿に荷物を置いて、山の陰から射す陽光とあつい雲に包まれて、目に入るすべてが蒼く見える。田辺をバスで出てから、我々を誘惑し続けた川の美しさに触れたくて、水辺に降りる。小さい頃の自分によくやってきた既視感につながる、不思議な河原。砂とも泥ともつかない、川底のような地面がだだっ広く続いていて、水の流れが錯綜している。あとになってわかったのだが、その河原は熊野川、音無川、岩田川が合流して形成された中州であり、明治まで熊野本宮の社殿があった場所。そんなことも知らず、しばしルカと石投げに興じる。水切りをすべく平らな石を探していくと、すべすべで平たい、黒い焼き物の破片のような石がいくつか見つかる。それもそのはず、120年の間、洪水で流れ出した社殿のかけらは水に洗われ、石になっていても不思議ではない。日が陰ってくればくるほど、黒い山が近くなり、靄が稜線をぼかし、空と山の境がどんどん見えなくなっていく。




水切りをしていたすぐ脇に神が降りてきたと言われる場所、大齊原(おおゆのはら)があることを知って、次の朝、早起きして参拝する。鳥居をくぐってしばらく行くと、低い石垣が濃い苔に覆われているのが見える。




その石垣から突きだした階段を数段上っていくと、広いフィールドに石碑がちらほらと見えてくる。中心には小さな石祠が2つ祀られており、その中に本宮の社殿の遺構が納められているらしい。

見とれていると、何かを話しながら誰かが近づいてくる。振り向くと、痩せたおばあさんが杖をつきながらやってくる。「おはようございます。」と会釈をすると、向こうは深々と頭を下げて「おはようございます。」と、僕を手招きをする。

「あたしゃ、今年で99歳。こうして毎年拝ませていただいて、おかげさまでこうしていられるのよ。」と、彼女。「ここはあたしの庭みたいなものだから、お掃除させてもらっているのよ。」

笑顔で、ふたこと、みこと、彼女と言葉を交わしてから、僕はおおゆのはらを降りて、昨日の河原の方へ歩く。河原に近づくと、また石垣があり、今度はもう少し高い土手になっていて、その上へ寝転んでみる。背中にあたる草が柔らかい。


1000年以上も間、熊野はあの老婆のような人々に愛され、詣でられてきた。

眼前の山々と川からなる光景は、厳しく、恐ろしいほどの気配に満ちているのに、それでいて何か懐かしくて、心が休まるのは、熊野に思い入れた人々の愛情が、澱のように堆積しているからのように思えてくる。

後鳥羽上皇が28回も訪れたという熊野。

僕はこれから何度行けるのだろう?

何度でも戻りたい。






5 Blog: 7月 2014 カナダから友人の息子、ルカが来ていて、少し旅をした。 関西を回り、以前から惹かれていた熊野へ行った。その印象は、期待をこえて圧倒的であった。 きのくに線を使って田辺駅で降り、バスに乗って湯峰温泉に着くまで、大阪、天王寺から約6時間。隣の県なのに、とにかく遠い。 山あい...

2014年7月5日土曜日

水村美苗と鉄斎 ー 選ばれた文字と言語

水村美苗の「私小説-from left to right-」を読んでいます。

"I'm reading this super-interesting Japanese writer...do you know Minae Mizumura?" と言われる前まで、僕はミズムラミナエという作家のことを知りませんでした。


アルゼンチン人で大航海時代のスペイン副国王の血を引くイネスは、むろんスペイン語でミズムラの"Una novela real"を読んでいて、彼女の唇からスペイン語訛りの英語で語られる和製嵐が丘の物語は、この上なく魅力的に聞こえたのに、僕が"Una novela real"を「本格小説」として読むのは、それから6年も経った今年のこと。しかし1度読み始めると、これが止まらない。寝る間も惜しくて、2週間ほど睡眠不足で読破したのですが、その前作に当たる「私小説」も同じくらい面白い。今度は読み終えるのが惜しくて、1日20〜30ページ限定で読んでいます。


水村美苗は、日本で生まれた日本語で書く作家という点で、他の日本語を母語とする多くの作家とは変わらないのですが、彼女は中学校からアメリカに渡り、イェールの大学院の博士課程を経て、アメリカの幾つかの大学で教鞭を取ってから、日本に戻って作家になったという異色派。彼女は、たぶん英語で小説を書くこともできたかもしれないし、仏文で博士課程まで取ったフランス語で作家活動に入ることだってできたのかもしれない。しかし、彼女はあえて日本語で書くことを選択した。その日本語という言語に対する思い入れが、彼女の言葉を強靭にしている。それは、ユダヤ系アメリカ人であるリービ英雄の書く、「越境した」日本語の透徹さにも通ずるものを感じます。表現の方法として、他の言語で言えたかもしれない可能性を振り切って、日本語で書いた必然性が、文体にあらわれてきている。

そんな事を考えながら、昨日、出光美術館でやっている富岡鉄斎展を見ていて、似たような意志を感じました。彼は国学者として、漢詩を自分のものとしていたといわれています。自分の書画については、描かれた絵を見ずに、まず詩を読め、と言っていたぐらい。僕は日本の高校に行っていないおかげで(というのは逃げ口上ですが)、彼の書いた漢詩を理解できず、ひたすら彼の絵と書がつくる空間にひたすら見入って圧倒されていました。彼の作品ほど、漢字の視覚デザインとしての凄味を感じたことはありません。展覧会では、彼が若い時分に書いたひらがなの和歌も何点かあり、非常に流麗で美しいのですが、彼の漢字と絵が一体になった時の壮大な力はない。

水村美苗やリービ英雄が、書き言葉としての日本語を選択したように、鉄斎も、漢字と漢詩を選び取ったに違いありません。しかもそれは、想像するに、中国人がごく当たり前に漢詩を書にしていくのとは、必然的に違って来るはずです。


ピカソが描いた線の強さにも通ずる(鉄斎もピカソも、牛好きです)、鉄斎の線が持つ躍動するエネルギーは、彼の画から漢字を立ち昇らせ、甲骨文字の古代に連なる漢字の呪術的な力を想い起こさせてくれたのでした。

鉄斎、おそるべし。




5 Blog: 7月 2014 水村美苗の「私小説-from left to right-」を読んでいます。 "I'm reading this super-interesting Japanese writer...do you know Minae Mizumura?&quo...
< >