2014年8月7日木曜日

アンダルシアから山元町へ

スペイン、ベラルカサルにある、フラグア・アーティストレジデンシーに行って、ちょうど3年になる。

ベラルカサルの城

マドリードの友達のアパートに4−5日世話になり、町の中心アトーチャ駅から鈍行列車に乗って6時間。アンダルシアに南下し、もう名前も忘れてしまった小さな駅で、レジデンシーのディレクターをしているハビエルが出迎えてくれた。砂埃でよく見えない道を、時々エンストしそうになる車を運転しながら、「心の準備はいいか?」と彼は僕に聞く。

エンストしたら車が押せるかとか、そんなことかと思ったら、
「今、ひと月前にレジデンシーをはじめていて、君と一緒に生活をしてもらうアーティストがいるんだけど、彼女はとても美しいんだ。でも、みんなが彼女に舞い上がってるから、恋に落ちないほうがいいかもね。」と。
そんな話をのっけからしてくるところが、いかにもスペインの男らしい。(のちに、その舞い上がっているうちの一人が、僕と共同生活をする3人目の、ゲイでバルセロナ出身の女性アーティストであることを知ることになるのだが、その話はまた別に・・・)

そんな、まえふりつきで知り合ったのが、リリヤだった。ロシア系ユダヤ人で、キリギス出身。インスタレーションや、映像、時にはパフォーマンスも含めた作品を作っている。アートを言葉で説明することは得意ではないので、意味が何層にも丁寧に敷き詰められたリリヤの作品は、僕の手には負えない。しかし、そもそも出自からして複雑な彼女自身のアイデンティティを突き詰めていく過程で、国家や、政治システムが呆気なく解体し、そこに残る文化の記憶(これは彼女自身の言葉だ)、そんなテーマで彼女は創作している。

先月、山元町坂元にある茶室の修復と将来の活用方法について、話をもちかけたときに、リリヤはすぐに茶室を使ったアートのアイディアをいろいろ出してくれた。キリギスでは、シルクロード沿いにチャイハナと呼ばれるティーハウスが昔からあり、中央アジアをキャラバンが行き来していた時代、商人たちはそこで荷を下ろし、商いをしながら、地元の人に遠い地で見た珍しい動物や、違う民族の不思議な風習の話をした。また人々は、寝転んだり頬杖をついたりして、パイプをくゆらせながら、詩人の語る叙事詩や音楽に耳を傾けたり、宗教や政治について、意見をたたかわせたりもした。いってみれば、チャイハナは、コンサートホールであり、公民館であり、市場でもあった。

もちろん、日本の茶室はそれとはだいぶ違うけれど、身分を越えて、茶を飲み、掛け軸や花を愛でながら語らいを持つ、という多機能な文化施設だったことに変わりはない。

そんな交通の「場」として、茶室をテーマにアーティストを内外から招いて作品を作ってもらったり、地元の人がくつろげる施設を併設できないか。そんな話をリリヤとしながら、文化の異種交配について考えた。

彼女とアンダルシアで知り合ったのは、偶然ではなかった。エドワード・サイードも言っていたように、700年もの間、アンダルシアは、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教を信じる人々たちが共存した、夢のような地だったのだ。(もちろん、いつもうまくいっていた訳ではなかったけれど)そこから、最先端の天文学や、医学や、音楽や、美術や、建築が生まれていった。異種交配を恐れなければ、コスモポリタンな文化が醸成される。

サイードが思いをはせたアンダルシア文化に、僕は10代の頃から魅せられてきた。寛容なアンダルシア文化と地中海文化の延長線上で、イスラエルとパレスチナの問題を捉えられたら、どんなに良いだろう。でも、そんな異種交配を恐れない試みが、山元町で起こっても良いはず。

そういえば、山元町にも、たたら遺跡が多くあるけれど、あのレジデンシーの名前もフラグア(鍛冶場)という名前がついていたんだっけ。

偶然と必然は隣り合わせだ。
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2014年8月2日土曜日

南方熊楠の住まいをたずねて

熊野古道の帰りに、田辺駅に近い南方熊楠顕彰館へ足を運んだ。

小学生の時に、南方熊楠の存在を知ったのも、今思うと自分が外国へ早く旅立った理由のひとつだったのかもしれない。

粘菌という、原始的な生物の営みを研究しつつ、民俗学から環境保護、神社合祀反対運動といった社会的な活動までした熊楠。20歳でアメリカへ渡り、6年後にはイギリスへ。33歳で帰国してからは、紀州を生活の拠点とし、紀伊の森の複雑な生態そのもののような知の体系を編み上げた。



彼が熊野の森で仁王立ちしている姿は、初めて見たときから、いつも僕の頭のどこかにある。


田辺にある顕彰館は、37歳で熊楠がこの地で生活する決心をつけ、後半生をすごした家がそのまま残されたもので、研究所・博物館然としたモダンな建物も併置されている。彼が住んでいたときそのままに残された家の縁側で、橋本邦子さんが温かく迎えてくださった。彼女は熊楠夫人の親戚にもあたり、熊楠の著作にも造詣が深く、文章もあちこちに寄稿されている。

僕はつねづね、彼の著作や研究が欧米であまりに知られていないことに疑問を持っている。日本人でネイチャーに51本も論文を出しているから、熊楠自身が英語で書いた文章も数多い、のにも関わらず、である。(なんといっても、18カ国語を操ったのだ。キューバの多国籍サーカス団と一緒に放浪しながら、女性団員たちに送られてくる、いろいろな言語で書かれたラブレターを熊楠がせっせと訳し、返事まで書いてあげたというエピソードはほほえましい。)

橋本さんも、熊楠の認知度の低さに歯がゆいものを感じられているようであった。熊楠の研究分野が多岐に広がっているために、翻訳するにしても、どういう切り口で紹介すれば分からず、多くの研究者が手をこまねいている現状を教えてくださった。

時間に追われる現代では、編集を経てパッケージされ、コモディティにしやすい知が求められる。アメリカやイギリスの出版社も、ある程度の売り上げを見込める物しか手を出さない。かといって、アカデミックなジャーナルを通じて研究発表をするといっても、熊楠の研究を取り上げるジャーナルはどこにあるのか。生物学か、民俗学か、文化人類学か、哲学か? 放埒な熊楠の知のあり方は、「いますぐに役立つ」ことばかり追求する末期資本主義社会には、徹底してそぐわない。

インターネットは、一見すると博物学に適したメディアに見える。しかし、得られる情報のほとんどは薄っぺらい。こんな時代だからこそ、横断する知のあり方として熊楠を読み直さなければ、と思って顕彰館をあとにした。

もう一度、中沢新一の書いた「森のバロック」と、彼のまとめた南方熊楠コレクションを手に取ってみよう。





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