2014年8月2日土曜日

南方熊楠の住まいをたずねて

熊野古道の帰りに、田辺駅に近い南方熊楠顕彰館へ足を運んだ。

小学生の時に、南方熊楠の存在を知ったのも、今思うと自分が外国へ早く旅立った理由のひとつだったのかもしれない。

粘菌という、原始的な生物の営みを研究しつつ、民俗学から環境保護、神社合祀反対運動といった社会的な活動までした熊楠。20歳でアメリカへ渡り、6年後にはイギリスへ。33歳で帰国してからは、紀州を生活の拠点とし、紀伊の森の複雑な生態そのもののような知の体系を編み上げた。



彼が熊野の森で仁王立ちしている姿は、初めて見たときから、いつも僕の頭のどこかにある。


田辺にある顕彰館は、37歳で熊楠がこの地で生活する決心をつけ、後半生をすごした家がそのまま残されたもので、研究所・博物館然としたモダンな建物も併置されている。彼が住んでいたときそのままに残された家の縁側で、橋本邦子さんが温かく迎えてくださった。彼女は熊楠夫人の親戚にもあたり、熊楠の著作にも造詣が深く、文章もあちこちに寄稿されている。

僕はつねづね、彼の著作や研究が欧米であまりに知られていないことに疑問を持っている。日本人でネイチャーに51本も論文を出しているから、熊楠自身が英語で書いた文章も数多い、のにも関わらず、である。(なんといっても、18カ国語を操ったのだ。キューバの多国籍サーカス団と一緒に放浪しながら、女性団員たちに送られてくる、いろいろな言語で書かれたラブレターを熊楠がせっせと訳し、返事まで書いてあげたというエピソードはほほえましい。)

橋本さんも、熊楠の認知度の低さに歯がゆいものを感じられているようであった。熊楠の研究分野が多岐に広がっているために、翻訳するにしても、どういう切り口で紹介すれば分からず、多くの研究者が手をこまねいている現状を教えてくださった。

時間に追われる現代では、編集を経てパッケージされ、コモディティにしやすい知が求められる。アメリカやイギリスの出版社も、ある程度の売り上げを見込める物しか手を出さない。かといって、アカデミックなジャーナルを通じて研究発表をするといっても、熊楠の研究を取り上げるジャーナルはどこにあるのか。生物学か、民俗学か、文化人類学か、哲学か? 放埒な熊楠の知のあり方は、「いますぐに役立つ」ことばかり追求する末期資本主義社会には、徹底してそぐわない。

インターネットは、一見すると博物学に適したメディアに見える。しかし、得られる情報のほとんどは薄っぺらい。こんな時代だからこそ、横断する知のあり方として熊楠を読み直さなければ、と思って顕彰館をあとにした。

もう一度、中沢新一の書いた「森のバロック」と、彼のまとめた南方熊楠コレクションを手に取ってみよう。





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