2014年6月6日金曜日

茶室という空間

おととい、僕の実家、宮城県亘理郡山元町坂元の茶室を保全したい、とブログに書きましたが、僕はお茶が点てられない、ただの素人です。

しかし茶道という立ち居ふるまい、を「道」としてしまった文化には瞠目します。

20世紀になって、日常生活とアートの境目をとっぱらってしまおう、というアイディアのもと、パフォーマンスアートというジャンルが生まれてきましたが、利休という人は、そんなことをすでに16世紀に考えてしまった。

しかも、ルソン島で汚物入れとして使われていたあやしげな陶器を、茶器として使ってしまう。利休が元々の用途を知っていたかどうかは別としても、20世紀の初めにマルセル・デュシャンが道で拾ってきた便器を美しく感じて、自分の名前をそれにサインして、「アート」と呼んでしまった発想にも近い。


ルソン壺
マルセル・デュシャンによる「泉」

人の集まる場をつくり、人と人とをつなげていくという作業は、アートの根幹でもあるコミュニケーション。茶の湯は建築、花、掛け軸などの、場を構成するオブジェを含めて、マルチメディアアートでもあり、パフォーマンスアートでもあります。茶を飲むだけでなく、新しい目でモノを見る空間と時間を作る、たいへんな編集能力がそこには備わっています。

例えば最近、リクリット・ティラバーニャという作家が、ギャラリーでお客さんに料理をふるまう行為そのものを作品としていますが、利休の前例を考えると、少なくとも400年遅い。

震災で分断された町のコミュニケーションをつくる場として、歴史ある茶室の復活を考えてみたい。

8月に日本を去る前に、なにか結果を出したいです。






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